エルネスト・アンセルメ
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

この記事には複数の問題があります。改善ノートページでの議論にご協力ください。

出典がまったく示されていないか不十分です。内容に関する文献や情報源が必要です。(2011年12月)


独自研究が含まれているおそれがあります。(2011年12月)
出典検索?: "エルネスト・アンセルメ" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL

エルネスト・アンセルメ
Ernest Ansermet
エルネスト・アンセルメ
基本情報
出生名Ernest Alexandre Ansermet
生誕1883年11月11日
スイスヴォー州
リヴィエラ=ペイ=ダノー郡ヴェヴェイ
死没 (1969-02-20) 1969年2月20日(85歳没)
スイスジュネーヴ州ジュネーヴ
学歴ソルボンヌ大学
パリ大学

ジャンルクラシック音楽
職業指揮者
活動期間1910年 - 1967年
.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ポータル クラシック音楽エルネスト・アンセルメ(1965年)アンセルメ(左)とヴィルヘルム・ケンプ(右)(1965年)

エルネスト・アレクサンドル・アンセルメ(Ernest Alexandre Ansermet, 1883年11月11日 - 1969年2月20日)は、スイス指揮者数学者
人物・来歴

アンセルメは、スイス西部のフランス語圏にあるレマン湖畔の町ヴヴェイに生まれた。父は幾何学者であったこともあり、彼もパリソルボンヌ大学パリ大学で数学を学んだ後、数学者としてローザンヌの大学の数学の教授になった。

しかし、音楽好きの母親の影響から、ローザンヌで3歳年上の新進作曲家であったエルネスト・ブロッホについて音楽の勉強をはじめた。作曲家としてもいくつかの作品を残している他、ドビュッシーの『6つの古代碑銘』をオーケストラ編曲し、楽譜はデュラン社から出版されている。

数学者として生きるべきか音楽に進むべきか一時は迷い、1909年ベルリンを訪れて、指揮者のニキシュワインガルトナーに助言を求め、ようやくアンセルメは指揮者として立つ決心を固めた。

1910年、アンセルメはモントルーで指揮者としてデビューした。この時のプログラムは、ベートーヴェンの『運命』を中心としたものであった。このコンサートがきっかけとなり、アンセルメはモントルーのクア・ザールの指揮者となる。

指揮者となったアンセルメは、モントルーのカフェでストラヴィンスキーと運命的な出会いをして意気投合した。ストラヴィンスキーは当時まだスイスのローカルな指揮者に過ぎないアンセルメを、第一次世界大戦のためスイスに疎開していたディアギレフに紹介した。モントゥーの後任を探していたディアギレフにとってはまさに渡りに舟で、彼は1915年のロシア・バレエ団(バレエ・リュス)によるジュネーヴ公演の指揮者としてアンセルメを指名した。ディアギレフは、アンセルメをアメリカ公演の指揮者としても指名し、ついに専属指揮者とした。

彼がバレエ・リュスで初演を担当した作品にはプロコフィエフの『道化師』、ファリャの『三角帽子』、サティの『パラード』などがある。

他にストラヴィンスキーの数多くのスイス時代の作品を初演し、マルタンオネゲルなどスイスの作曲家たちの作品を頻繁に取り上げた。これらの活動の多くは、1918年にジュネーヴに創設したスイス・ロマンド管弦楽団によってなされた。

スイス・ロマンド管弦楽団は、設立当初は財政的に不安定であった。1930年代はじめには一時活動休止にまで追い込まれている。しかし、1938年にローザンヌのスイス・ロマンド放送のオーケストラを吸収合併し、当時成長をはじめた放送局のオーケストラとして財政的にも安定すると、一気に活動も活発となり、多くの名指揮者を客演として招聘するようになる。ブルーノ・ワルターフルトヴェングラーカール・シューリヒト(ヴヴェイに住んでいた)などが積極的に招かれている。フルトヴェングラーは、1944年1月17日ローザンヌ、1月19日ジュネーヴで客演した(後にスイスに亡命)。カール・シューリヒトとは、第2次世界大戦前から親交があったが、アンセルメが終戦の前年に彼をスイス・ロマンド管弦楽団に客演を依頼して、ドイツから亡命する手助けをした。終戦後数年にわたって、このオーケストラへの客演がシューリヒトの主な活動となった。

戦後、イギリスのレコード会社デッカと専属契約を結んだアンセルメとスイス・ロマンド管弦楽団は、かつてディアギレフの元で演奏したバレエ音楽や、親交のあったラヴェルルーセル、ストラヴィンスキーの作品などからベートーヴェンやブラームスヨーゼフ・ハイドンなどのドイツ・オーストリア音楽に至るまで、網羅的に録音をする機会を得た。それらは、アンセルメのホームグラウンドとなったジュネーヴのヴィクトリア・ホール(英語版)で行われた。このホールは録音のための部屋がなく、レストランの厨房がコントロール・ルームとして用いられた。

放送用のスタジオは別にスイス・ロマンド放送にあった。ここでは映像をはじめとするアンセルメの多くの演奏が収録されており、膨大なアーカイブが存在すると言われている。現在、当スタジオはアンセルメの名を冠している[注釈 1]

英デッカの録音によりアンセルメは世界的に名声を得た。サン=サーンス『オルガン付』交響曲や、オネゲルの『ダヴィデ王』などは当時ベストセラーとなった。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:28 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef