エルナーニ
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『エルナーニ』(Ernani)は、ジュゼッペ・ヴェルディが作曲した全4幕からなるオペラである。ヴィクトル・ユーゴーの、これも有名な戯曲『エルナニ』に基づく。1844年に初演され、ヴェルディにとって第5作目のオペラであり、初期の傑作の一つに数えられる。

原語曲名: Ernani

原作: ヴィクトル・ユーゴー作『エルナニ』(Hernani, 1830年初演)

台本:フランチェスコ・マリア・ピアーヴェ

演奏時間: 約2時間10分

初演: 1844年3月9日ヴェネツィアフェニーチェ劇場にて

作曲の経緯
ヴェネツィアとの契約

前々作『ナブッコ』(初演1842年)、前作『十字軍のロンバルディア人』(同1843年)のミラノスカラ座初演が成功、ヴェルディの新進気鋭のオペラ作曲家としての評価は急速に高まりつつあった。ロッシーニは作曲から引退、ベッリーニは1835年に早世、ドニゼッティは主としてパリウィーンを拠点に活動しており、ちょうどこの時イタリアは新たなオペラ作曲家を渇望していたという事情もある。

ヴェルディはこの好機を活かして大飛躍を企てる。これまで4作は全てスカラ座での初演であり、多くは同座の支配人(興行師といった方がより的確)、バルトロメオ・メレッリに与えられた台本に唯々諾々と曲を付けているだけだった。メレッリはまた、金銭的にも作曲家にとって渋いことでも有名だった。ヴェルディは、作曲面でも金銭面でもより有利な条件を追求すべく、今回は他の歌劇場からの委嘱を受ける決心だった。

この機を逃さずヴェルディに接近してきたのは、イタリア半島北部におけるスカラ座の最大のライヴァル、ヴェネツィアフェニーチェ劇場の支配人、ナンニ・モチェニーゴ侯爵だった。条件は、1843年-44年のカーニヴァル・シーズンに2作を上演すること、うち1作はヴェネツィアにとっての初演(最終的には『イ・ロンバルディ』を上演した)、もう1作は完全なる新作であること、となっていた。ヴェルディは1843年6月頃この条件を受諾した。

ヴェルディから提示した主な条件は、
新作の上演料としてヴェルディは12,000オーストリア・リラを受領する

その上演料は初演終了時までに全額支払われる

新作の題材は、ヴェルディに決定権がある

台本作家の人選はヴェルディに決定権があり、またその対価は劇場でなくヴェルディが支払う

歌手の人選についても、フェニーチェ劇場と同シーズン契約した歌手陣の中からヴェルディが選定する。

というものであり、モチェニーゴはそれらをすべて受け入れた。このうち1.については、前々作『ナブッコ』でヴェルディが受領したのは4,000リラ、『イ・ロンバルディ』で8,000リラ(ともにメレッリのスカラ座より)であることを考えれば、その出世振りがうかがえよう。2.に関しては若干の解説が必要である。当時のイタリア・オペラ興行での慣習では、新作オペラの場合上演料は分割払いで、うち相当程度は第3回公演終了後に支払われることになっていた。つまり新作が失敗に終わり、3回以上の公演が完了しなかった場合には作曲者は当初契約より少ない金額しか受け取ることができなかった。ヴェルディは実際、大失敗に終わり、たった1夜しか上演がなされなかった『一日だけの王様』(1840年)でそうした憂き目に遭っている。この条件の挿入は、ヴェルディの自信の現れとみることができよう。
題材検討

ヴェルディ自身が考えていた題材は、主にイギリスの作家の作品、例えばシェイクスピアの『リア王』、リットンの『リエンツィ』、あとバイロンの諸作品などであったらしい。

うち『リア王』はヴェルディが生涯を通じてオペラ化を企て、様々の理由で断念、結局作品化できなかった曰くつきの題材である。この時の検討はそのうち最初の試みにあたるのだが、リア王を演じ歌うべきはバス歌手と考えていたヴェルディは、フェニーチェ劇場がこのシーズンに優れたバスを確保できないらしいと知って断念した。

また『リエンツィ』は1835年初版の小説であり、既に1842年にはヴェルディ後年のライヴァル、リヒャルト・ワーグナーがオペラ化、ドレスデンで初演している。ヴェルディがワーグナー作品の存在を知っていたかどうかは定かではないものの、仮にヴェルディがこれをオペラ化していたならば、両大家唯一の競作作品となったはずであった。この時は、ヴェネツィアでの検閲通過の困難さを考えて計画が放棄されたと考えられている。
台本作家ピアーヴェ

題材検討を続けるヴェルディに接近してきたのがフランチェスコ・マリア・ピアーヴェであった。ピアーヴェはヴェルディより3歳年長であるが、台本作家としてのキャリアを1842年にスタートさせたばかりで、この頃はフェニーチェ劇場の上演監督の地位にあった。彼はウォルター・スコットの小説「ウッドストック」に基づいて独自に起こした台本『アラン・キャメロン』Allan Cameronをヴェルディに提案した。これは、清教徒革命に題材をとり、ウスターの戦い以降のチャールズ2世オリバー・クロムウェルらの抗争を描いたもの(なお、ピアーヴェはユーゴーの『クロムウェル』を台本化した、と記述している書籍もあるが、これは誤り)。

ヴェルディとピアーヴェはこの『アラン・キャメロン』をオペラ化すべくしばし努力する。ヴェルディはその内容について「イベントに乏しい」などいくつかの不満をもっていたし、ピアーヴェがまだ駆出し同然の経験不足であるのも不安だった。しかしピアーヴェの韻文の美しさには見るべきものがあったし、また彼がよく気が利く、温和な性格だったこともヴェルディは気に入ったようだ。1843年の9月には『アラン・キャメロン』はほぼ放棄状態となってしまったが、ヴェルディはそのままピアーヴェを用いて、支配人モチェニーゴの提起した代案をオペラ化することに同意した。それが、ヴィクトル・ユーゴー原作の『エルナニ、またはカスティーリャの名誉』Hernani, ou l'Honneur Castillanだった。
戯曲『エルナニ』とそのオペラ化「エルナニ事件」

ユーゴー作の戯曲『エルナニ』は1830年にパリコメディ・フランセーズ劇場で上演された。「三一致の法則(regle des trois unites)」「句またぎ(enjambement)の禁忌」など古典派演劇の大原則を逸脱し、「フランス・ロマン派演劇の創始」とされるこの作品の初演は古典派の野次、ロマン派支持者の喝采の激しい衝突を呼び、その際の騒動が「エルナニ事件(戦争)」La bataille d'Hernaniとして知られているほどの話題作だった。ヴィンチェンツォ・ベッリーニは初演直後の1830年から31年にかけて作曲を試みているが、検閲に引っ掛かり、序曲と一幕のスケッチのみで作曲を中断してしまう(w:Vincenzo Bellini#Attempts to create Ernaniを参照)。この草稿は21世紀に入ってCD化されている。

ヴェルディが題材選定を行っていた1843年においてはその興奮は醒めていたものの、『エルナニ』あるいは原作者ヴィクトル・ユーゴーの名は検閲官にとってはいまだに危険な響きをもつ存在のはずであり、モチェニーゴがなぜそういった問題作をヴェルディに提案したのか、はっきりとはわかっていない。戯曲『エルナニ』の革新性は演劇の内容よりもその表現方法に存するため、オペラ化しても安全であると踏んでいた可能性もあるし、この後ヴェネツィアの検閲当局との会談で同作のオペラ化が案外すんなりと認められたことからみて、モチェニーゴあるいはピアーヴェは何らかのルートで事前に検閲動向を知っていたとも想像される(検閲官の意向を探るのは当時台本作家の重要な職責の一つであり、ピアーヴェは生涯を通じてその点では有能ぶりを発揮している)。

一方、ピアーヴェの台本作家としての経験不足に不安を覚えたらしいヴェルディは、当時在住のミラノから数度にわたり詳細な指示を行っている。原戯曲は全5幕にも及ぶ長大なものだったが、ピアーヴェは指示に沿ってこのうち第1-3幕を思い切って短縮、単一の第1幕とした。この結果、原作で主人公エルナニがもっとも活躍する第2幕は割愛されてしまった。

また注目されるのは「最後の2幕分についてだが、できるだけユーゴーに忠実に沿った方が効果的というものだろう。(中略)原作の素晴らしい語句を落とさないようにしてもらいたい」(ピアーヴェ宛1843年10月2日付書簡)など、カットしない箇所に関しては逆に原戯曲に対する忠実性をヴェルディが要求していることである(ただし、原作では3人とも死ぬ、というラストシーンを改変している)。19世紀前半におけるイタリア・オペラでは、仮に「原作」などがあろうとも登場人物の性格付けだけを継承して、筋書は勝手に再構成、歌詞表現は音楽の都合次第で改変する、というのが(ロッシーニやドニゼッティといった大家も例外でなく)常識だっただけに、ヴェルディのこの作曲態度はまったく新しい時代を象徴するものだった。
配役の問題

ヴェルディはまた、支配人モチェニーゴから「カロリーナ・ヴィエッティなるコントラルト歌手を配役に加えてもらえないか」との懇請を受け、検討している。彼女はヴェネツィアでは大人気歌手であった。仮にこの依頼を受諾するとなると、主要登場人物の声域はエルナーニ(コントラルト)、ドン・カルロ(テノール)、シルヴァ(バリトン)、エルヴィーラ(ソプラノ)となるはずであった。

主人公の男性役を女声が担当するというのはもちろん18世紀には当たり前(例えばヘンデルセルセ』)で、19世紀初めにもあり得た方式であるが(未完のベッリーニ版ではジュディッタ・パスタを想定していたとされる)、既にこの1840年代には時代遅れとみなされる傾きがあった。


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