エルトゥールル号遭難事件
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エルトゥールル号殉難将士慰霊碑
(和歌山県串本町)オスマン帝国海軍「エルトゥールル」

エルトゥールル号遭難事件(エルトゥールルごうそうなんじけん)は、1890年明治23年)9月16日夜半にオスマン帝国(現在のトルコの一部)の軍艦エルトゥールル号 (Ertu?rul F?rkateyni) が、現在の和歌山県東牟婁郡串本町にある紀伊大島樫野埼東方の海岸沿いで遭難し、500名以上の犠牲者を出した事件[1]。日本の海難史上初の大規模な外国船の海難事故である[2]
事件の経緯
訪日アブデュルハミト2世オスマン・パシャ艦長

日本とオスマン帝国との間では1887年に行われた小松宮彰仁親王夫妻のイスタンブール訪問を契機に皇室儀礼関係が始まり、アブデュルハミト2世明治天皇に勲章を奉呈するためにエルトゥールル号を日本へ派遣することとなった[2]

エルトゥールル号は船体の整備を受けたうえで1889年7月14日にイスタンブールを出港し、数々の困難に遭いながらも航海の途上に立ち寄ったインドインドネシアなどのイスラム諸国で歓迎を受けつつ、11ヶ月かけて1890年6月7日にようやく日本へ到着した。横浜港に入港したエルトゥールル号の司令官オスマン・パシャを特使とする一行は、同年6月13日にアブデュルハミト2世からの皇帝親書を明治天皇に奉呈し、オスマン帝国最初の親善訪日使節団として歓迎を受けた。
帰途の遭難紀伊大島トルコ記念館の直下の海岸。画像奥中央の岩礁にエルトゥールル号が乗り上げ、座礁した。

エルトゥールル号は艦齢26年の老朽艦だったうえ、補給品の不足や乗員の経験不足などもあり、そもそも極東行きの航海自体も海軍内部に反対意見は強く、日本にたどり着いたこと自体が大変な幸運だとみられていた。そして出港以来、蓄積し続けた艦の消耗や乗員の消耗、資金不足に伴う物資不足が限界に達していた。

さらにエルトゥールル号ではコレラ禍が発生し、1890年9月15日になってようやく横浜を出港することとなった[2]。遠洋航海に耐えないエルトゥールル号の消耗ぶりをみた日本側は台風の時期をやり過ごすように勧告するも、オスマン帝国側はその制止を振り切って帰路についた。

このように無理を押してエルトゥールル号が派遣された裏には、インド東南アジアムスリム(イスラム教徒)にイスラム教の盟主・オスマン帝国の国力を誇示したい皇帝・アブデュルハミト2世の意志が働いており、出港を強行したのも、日本に留まりつづけることでオスマン帝国海軍の弱体化を流布されることを危惧したためと言われている。遭難事件はその帰途に起こった。

1890年9月16日21時ごろ[3]、折からの台風による強風にあおられたエルトゥールル号は紀伊大島の樫野埼に連なる岩礁に激突し、座礁した機関部への浸水による水蒸気爆発が発生した結果、22時半ごろに沈没した[3]。これにより、司令官オスマン・パシャ(ドイツ語版)をはじめとする600名以上が海へ投げ出された。
救難活動樫野埼灯台

樫野埼灯台下に流れ着いた生存者のうち、何人かが暗闇の中を灯台の明かりをたよりに断崖を這い登って灯台にたどりついた[2]

灯台には逓信省管轄下の雇員2名が灯台守として勤務しており、生存者の介護とともに大島村(現在の串本町)樫野地区の区長に急報した[2]。灯台守は応急手当を行ったが、お互いの言葉が通じないことから国際信号旗を使用し、遭難したのがオスマン帝国海軍軍艦であることを知った[3]

樫野地区の区長は島の反対側にある大島地区にいた大島村長の沖周(おき あまね)にも使者を送り、翌日午前10時30分頃に伝えられた[2]。沖村長は郡役所と和歌山県庁に使者を派遣し、村に居住する3人の医師とともに午前11時30分頃に現場に到着し、村民を大動員して生存者の探索と負傷者の救済を行った[2]。この時、台風によって出漁できず食料の蓄えもわずかだったにもかかわらず、住民は浴衣などの衣類、米、卵やサツマイモ、それに非常用のすら供出するなど、生存者たちの救護に努めた。この結果、656名中、樫野の寺、学校、灯台に収容された69名が救出され、生還に成功した。その一方、司令官のオスマン・パシャを含めた587名は死亡または行方不明という大惨事となった。

大島村長の沖は生存者士官から事情聴取をすると17日夕刻に東京の海軍省呉鎮守府に打電し、さらに18日早朝には村役場雇員と巡査と2名の生存者士官を領事館が林立する神戸へ派遣した[2]。村長からの連絡により、19日未明には和歌山県庁と兵庫県庁が第一報を受け、和歌山県庁は海軍省、兵庫県庁は宮内省に打電した[2]

生存者士官が向かった神戸では地方新聞の『神戸又新日報』が19日付で号外を出し、海難を知ったドイツ領事館は神戸停泊中のドイツ海軍の砲艦「ウォルフ」を大島に急行させ、生存者の大半は21日早朝に神戸[3]和田岬消毒所[4][5]へ搬送・収容された[2]

中央政府では明治天皇の賓客として迎えていたことから宮内省、外国軍艦であることから外務省と海軍省、海難事故であることから内務省逓信省が対応に当たった[2]。宮内省は明治天皇の意向を受け、海軍省に軍艦の急派を要請し、宮内省侍医と日本赤十字社要員を神戸経由で派遣した[2]。このうち海軍省は八重山を派遣したが出航に手間取り、ウォルフ号に遅れをとり任務遂行を全う出来なかった[2]。神戸の和田岬消毒所では宮内省の侍医によって生存者69名が診察され介護が行われた[2]
送還

大日本帝国海軍コルベット艦である「比叡」と「金剛」が遭難事故の20日後の10月5日、東京の品川湾から出航し、神戸港で生存乗員を分乗させて1891年1月2日にオスマン帝国の首都・イスタンブールまで送り届けた[3]

比叡艦長で薩摩藩出身の田中綱常(最終階級は少将)は、オスマン帝国皇帝アブデュルハミト2世より勲章を下賜された。そのほか、2隻には秋山真之海兵17期生少尉候補生として乗船した。因みに、エルトゥールル号遭難事故から125年目の2015年に行われた「日本トルコ友好125周年追悼式典」に参加するために、トルコ海軍のフリゲート艦「ゲディズ」が日本に寄港した際、この訪日を機にゲディズに「比叡」と「金剛」の名前が冠された2つの船室が設けられ、うち「比叡」が晴海ふ頭で報道公開された[6]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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