この項目では、紀元前63年のエルサレム攻囲戦について説明しています。その他のエルサレム攻囲戦については「エルサレム攻囲戦 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
エルサレム攻囲戦
Pompey in the Temple of Jerusalem, ジャン・フーケ 1470-1475
時紀元前63年
場所エルサレム
結果ローマの勝利、ユダヤは共和政ローマの体制に組み込まれた。
衝突した勢力
共和政ローマハスモン朝
指揮官
グナエウス・ポンペイウス
ファウストゥス・コルネリウス・スッラ
紛争
エルサレム攻囲戦(紀元前63年)
ガリラヤの蜂起(8年)
キリストの磔刑(26年-36年)
アレクサンドリア暴動 (38年)
ヤコブとシモンの乱(46年)
主な戦争
ユダヤ戦争(66年-74年)
キトス戦争(115年-117年)
バル・コクバの乱 (132年-136年)
エルサレム攻囲戦(エルサレムこういせん)は、紀元前63年に共和政ローマのグナエウス・ポンペイウスがハスモン朝ユダヤのエルサレムに対して行った攻城戦。ハスモン朝ではアリストブロス2世とヒルカノス2世による王権争いに起因する内紛が起こっており、第三次ミトリダテス戦争の勝利によって小アジアを支配した余勢を駆ってオリエント地域へと侵攻したポンペイウスを味方につけようと、両者はこぞってポンペイウスに接近した。ポンペイウスはヒルカノス2世の後ろ盾となりエルサレムを包囲、陥落させたが、その代償としてハスモン朝はサマリアや地中海沿岸部など多くの領域を失い、ユダヤは実質的にローマの属国(英語版)となった。 ハスモン朝ユダヤの女王であったサロメ・アレクサンドラが紀元前67年に死亡した後、彼女の二人の息子であった兄ヒルカノスと弟アリストブロスが王権を巡って争い、ユダヤは内戦に突入した。はじめ、大祭司であったヒルカノスが王位を継承したが、アリストブロスが起こした反乱によってヒルカノスは王位および大祭司職を追われた。ヒルカノスは友人であったイドマヤ人[1]のアンティパトロス
背景
一方、ポンペイウスは第三次ミトリダテス戦争を成功裡に終結させたのに引き続きセレウコス朝シリアを滅ぼしてシリア属州を設置し、紀元前64年から63年にかけての時期は新たな属州を統治することに時間を費やしていた[5]。ポンペイウスによりダマスカスへと派遣されたレガトゥスのマルクス・アエミリウス・スカウルス(英語版)は、支援を求めるヒルカノスとアリストブロスそれぞれの使者から接近を受けた。両者は同額の金銭の支払いを提示したが、資金力の裏付けを持ち要塞化された都市に立て篭もるアリストブロスと、資金力に乏しく脆弱なナバテア軍と共にあるヒルカノスを比較したスカウルスは、アリストブロスの側に着いてエルサレムの包囲を解くようアレタス3世に命じた[6][7]。ナバテア軍がフィラデルフィア(現在のアンマン)方面へと撤退したので、アリストブロスはこれを追撃してパピュロンにおいてナバテア軍を破った[2]。
紀元前63年にポンペイウス自身がダマスカスに到着すると、ヒルカノスとアリストブロスの両者は調停を求めてポンペイウスを訪ねた。ポンペイウスは決定を先送りにし、先にナバテアでの状況確認を行ってから結論を出すと両者に通知した。アリストブロスはポンペイウスの決定を待たずしてアレクサンドレイオン(英語版)の要塞に篭るためにダマスカスを発った。これにポンペイウスは怒ってローマ軍をユダヤへと進軍させたが、それを見たアリストブロスは降伏してポンペイウスの元に出頭した。アリストブロスはポンペイウスに対してローマ軍のエルサレム入城と金銭の贈与を約束する代わりに自身の地位を安堵することを求めて赦免を受けることに成功したが、ポンペイウスの命を受けたアウルス・ガビニウスがローマ軍を率いてエルサレムを占領しようとするとアリストブロスの支持者はローマ軍のエルサレム入城を拒否した。約束を反故にされたポンペイウスはアリストブロスを捕らえ、エルサレムを攻囲するための準備を始めた[8][9]。