エルサルバドルの歴史
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エルサルバドルの歴史(エルサルバドルのれきし)はメソアメリカ文明の国、特にピピル人レンカ族マヤ人の国から始まった。16世紀初期、エルサルバドルにあたる領域はスペイン帝国に征服され、メキシコシティを首都とするヌエバ・エスパーニャ副王領に組み込まれた。エルサルバドルは1821年にメキシコ第一帝政の一部として独立したが、僅か2年後に中央アメリカ連邦共和国として分離した。共和国が1841年に解体すると、エルサルバドルは独立国になり、1895年から1898年の短期間にホンジュラスニカラグアと連合して中央アメリカ大共和国を建国した期間を除いて、独立国になった[1][2][3]

19世紀末から20世紀中期、エルサルバドルではクーデターや反乱が頻発し、政治的にも経済的にも慢性的に不安定な状況に陥った。社会経済の不公平と社会不安が持続したことで1979年から1992年まで、軍政府と左翼ゲリラ連合の間でエルサルバドル内戦が勃発した。チャプルテペク平和協定(英語版)で内戦が終結するとエルサルバドルは多党制共和国になり、この政体は現在まで続いている。

エルサルバドルの経済は歴史的に農業が支配的であり、最初は植民地時代のインディゴ[4][5]、その後はコーヒーが主な作物で20世紀初期には輸出高の9割を占めた[6][7]
スペインによる植民地化以前詳細は「クスカタラン(英語版)」を参照スペイン支配以前の中央アメリカ

スペインによるアメリカ大陸の植民地化以前、現代のエルサルバドルにあたる地域は3つの原住民国家といくつかの公国に分けられた。エルサルバドル中部には遊牧民族ナワ族の一族であるピピル人が長期間定住した。後にスペインが植民地化を目指したとき、ピピル人は強く抵抗した[8]

東部ではレンカ族が、レンパ川(英語版)北部ではマヤ人に属するチョルティ族が居住、統治していた。この2部族の文化は近隣のアステカマヤ文明に似ていた。

いくつかの考古学遺跡では600年頃の住民の日常生活と住居に関する証拠が深さ6メートルの火山灰層の下に保存されている[9]
スペインによる征服詳細は「スペインによるエルサルバドル征服(英語版)」を参照

スペインによるクスカトラン王国征服の最初の試みはペドロ・デ・アルバラードにより1524年に行われたが、アカフトラの戦い(英語版)でアトラカトル(英語版)王とアトナル王子(Atonal)率いるピピル人戦士により撤退に追い込まれた。アルバラードは翌1525年に再び征服を試み、今度は植民地化に成功して、エルサルバドルを王立メキシコ・アウディエンシア(英語版)の支配下に置いた。
スペイン植民地時代詳細は「ヌエバ・エスパーニャ」を参照

ペドロ・デ・アルバラードはこの地域をイエス・キリストにちなんでエルサルバドル(El Salvador、「救世主」)と名付けた。アルバラードは初代総督に任命され、1541年に死去するまで在任した。また1538年から1543年まで王立パナマ・アウディエンシア(英語版)の管轄下に置かれた(同時期の中米は概ね王立グアテマラ・アウディエンシア(英語版)の管轄下であった)。
独立詳細は「中央アメリカ史」を参照イロパンゴ火山の噴火、1891年。

19世紀初期、ナポレオン・ボナパルトがスペインを占領したことでスペイン領アメリカ全体で反乱が勃発した。ヌエバ・エスパーニャでは反乱が1810年から1821年までおこり、反乱がおこった地域は副王領の中央部、現メキシコ中部にあたる地域に集中した。そして、副王が1821年に首都(現メキシコシティ)に敗れると、独立の報せがグアテマラ総督領など全国に伝わり、エルサルバドルはほかの中米総督領とともにスペインからの独立を宣言した。

独立の布告は1821年の中央アメリカ独立法(英語版)で行われた。独立宣言の後、ヌエバ・エスパーニャ議会は連邦を設立して、中米諸国が独立した法律と立法機関で統治しつつスペイン王フェルナンド7世をヌエバ・エスパーニャ皇帝に擁立すると計画した。フェルナンド7世が即位を拒絶した場合はボルボン家から代わりの皇帝を擁立する定められたが、フェルナンド7世は独立を承認せず、スペインはいかなるヨーロッパ王族でもヌエバ・エスパーニャの君主位をとることを承認しないと述べた。

議会の求めに応じた政権首脳のアグスティン・デ・イトゥルビデはヌエバ・エスパーニャ皇帝として擁立され、イトゥルビデはヌエバ・エスパーニャをメキシコに改名した。1821年から1823年まで続いたこの帝政期の正式名称はメキシコ帝国である。メキシコ帝国の領域は元グアテマラ総督領を含む総督領とヌエバ・エスパーニャ諸州であった。

エルサルバドルはメキシコへの併合を恐れてアメリカ合衆国への加盟を求めたが、1823年に革命が起こってイトゥルビデが皇帝を追われると、メキシコ議会は中米の各総督領の自己決定を議決した。同年、マヌエル・ホセ・アルセ(英語版)将軍の許で中央アメリカ諸州連合が中米5総督領で成立した。総督領は州へと改名された。

1832年、アナスタシオ・アキノ(英語版)が原住民を率いて、ラ・パス県サンティアゴ・ノヌアルコ(英語版)でクリオーリョメスティーソに対し反乱した。原住民の不満は恒常的な虐待と耕作地の不足によるものであり、これ以降のエルサルバドルでも土地の問題が多くの政争の原因となった。

中米連邦は1838年に解体、エルサルバドルは独立共和国になった。
インディゴとコーヒー

エルサルバドルの地主エリート層は商品作物インディゴに頼ていた。これにより、地主は一部の土地に集まり、残りの土地、特に直近に火山噴火があった地域の近くから離れた。これらの土地は原住民や自給自足農業(英語版)に残された。しかし、19世紀中期にはインディゴが合成染料に取って代わられたため、エリートたちは代わりに需要が増えたコーヒーを生産した[10]

これにより、土地が突如大きな価値を有するようになり、エリートによって支配された立法議会大統領は浮浪法を成立させて人々を自分の土地から追い出し、多くのエルサルバドル人が土地を持たなくなった。これらの土地は「フィンカス」(fincas)と呼ばれるコーヒーのプランテーションに組み込まれた[10]

ヘクトル・リンド=フエンテス(Hector Lindo-Fuentes)によると、「国づくりとコーヒー業の拡大が同時に進行したことで、20世紀にエルサルバドルを統治する寡頭支配層を生み出した」という[11]
寡頭支配

エルサルバドルの歴史を支配した寡頭支配層は封建領主だった。エルサルバドル旧憲法(英語版)は封建領主に有利になるよう1855年、1864年、1871年、1872年、1880年、1883年、1886年と繰り返して改正されたが、一部の要素は常に残っていた[12]

裕福な地主は常に立法議会と経済で大多数を占めた。例えば、1824年の憲法では議会を70議席の一院制と定めたが、うち42議席は地主に留保されたものだった。地主エリート層から選出された大統領も強大な権力を有した。エルサルバドルの14知事は大統領によって任命された。憲法が頻繁に改正されるのは大統領が権力を保持するためであった。例えば、1859年から1863年までの大統領ヘラルド・バリオス(英語版)は任期を延長するために新しい憲法を起草した[12]


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