エリー1世
Elie Ier du Maine
メーヌ伯
19世紀に描かれたメーヌ伯エリー1世(左)とブロワ伯ウード2世の想像画
在位1093年 - 1110年
死去1110年7月11日
ル・マン
埋葬 ル・マン、ノートルダム・ド・ラクチュール教会
配偶者マティルド・ド・シャトー・デュ=ロワール
ベアトリス・ド・ポワティエ
子女エランブルジュ・デュ・メーヌ
家名ラ・フレーシュ=ド・ボージャンシー家
父親ジャン・ド・ボージャンシー
母親ポーラ・デュ・メーヌ
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エリー1世・デュ・メーヌ(Elie Ier du Maine, ? - 1110年7月11日)は、メーヌ伯(在位:1093年 - 1110年)。
名は他にエリー1世・ド・ラ=フレーシュもしくはド・ボージャンシー(Elie IerあるいはHelie Ier de la Flecheもしくはde Beaugency)ともされる。 ボージャンシー卿ランセリン1世の次男ラ・フレーシュ卿ジャン・ド・ボージャンシー(フランス語版
生い立ち
エリーは母を通じ、当時より2代前のメーヌ伯エルベール1世(フランス語版
)の孫に当たるため、当時競争率の激しかったメーヌ伯領統治権を主張した。エリーは父よりラ・フレーシュ卿位を相続し、アンジュー伯フルク4世の家臣となり、ノルマンディー公ロベール2世に対抗していた。
1089年にバロン(フランス語版
)城を占領し、1090年にノルマンディー側に味方したル・マン司教を捕虜とした。1093年、エリーは従兄に当たる先代のメーヌ伯ユーグ5世からメーヌ伯領の統治権を1万シリングで買い取ったことによりメーヌ伯となった際、君主フルク4世の支援でノルマンディー公ロベール2世に対し、自らがメーヌ伯であることを主張できた。ノルマンディー公との戦闘を続けたため、ロベールの実弟ギヨームによる攻撃を撃退しなければならなかった。
ギヨームはイングランド王ウィリアム2世として戴冠し、その後1098年にエリーはギヨームの家臣シュールズベリー伯ロベール・ド・ベレームに捕らえられ[1]、ルーアンに連行されたと同時にギヨームによりル・マンにて鎮圧された。
エリーは解放された後、ラ・フレーシュに退き、盟友アンジュー伯ジョフロワ4世(フランス語版)と共にギヨームと再戦したが、3か月の包囲の後、結局エリーが死去する1110年までル・マンを奪還することは叶わなかった。
1001年、エリーはノルマンディー公ロベール2世が第1回十字軍遠征でフランスを発った隙にノルマンディー公の摂政をしていたギヨームと和平を結んだ。
1100年、ウィリアム2世が狩猟場にて崩御した後は、ウィリアムの弟アンリが即位しヘンリー1世となった。
しかし1106年、ヘンリーの長兄ノルマンディー公ロベール2世が後からイングランド王位を主張してきたため、タンシュブレーの戦いが起きたが、結果的にイングランド王ヘンリー1世がロベール2世に勝利し、ノルマンディ公国君主となり得たのは、戦いにエリーが介入した功績によるものと言える。
エリーは初婚でシャトー・デュ=ロワール卿ジェルヴェの娘マティルドと結婚し一人娘をもうけている。
エランブルジュ (? - 1126年)- エリーの次代メーヌ女伯。1110年にアンジュー伯フルク5世と結婚した。後のアンジュー伯ジョフロワ4世・プランタジネット・ダンジュー=メーヌの母。ジョフロワ4世はイングランド王ヘンリー2世の父親にあたる。
マティルドと死別した後にアキテーヌ公・ポワティエ伯ギヨーム8世の娘で、カスティーリャ王アルフォンソ6世未亡人ベアトリス・ド・ポワティエと1109年に再婚したが、ベアトリスとはその翌年死別した。
その同年1110年7月11日にエリーも死去し、ル・マンのノートルダム・ド・ラ・クチュール教会の聖歌隊によって埋葬された。
脚注^ Neveux 1998, pp. 459?460.
参考文献
Neveux, Francois (1998). la Normandie, des ducs aux rois (Xe-XIIe -siecle). Rennes: Ouest-France
出典
⇒FranceBalade : les seigneurs du Maine
⇒Foundation for Medieval Genealogy : comtes du Maine
⇒Helias de la Fleche
先代
ユーグ5世メーヌ伯
1093年 - 1110年次代
エランブルジュ
フルク5世