エリー運河
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エリー運河
1853年の運河地図。エリー運河以外の支線も入っている。
歴史
主要技術者ベンジャミン・ライト(英語版)
他技術者キャンバス・ホワイト(英語版)
建設開始1817年7月4日 (ニューヨーク州ロームより開始)
運用開始1825年10月26日
完成1832年
地理
主流ニューヨーク州運河システム(英語版)
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エリー運河(エリーうんが、: Erie Canal)は、アメリカ合衆国ニューヨーク州にある運河エリー湖からハドソン川上流までを繋ぎ、ニューヨーク港に注ぐハドソン川を通じて五大湖大西洋の間の舟運を可能にした運河である。東部と中西部の運搬を一気に容易にした最初期の交通革命となった[1]

最初に提案されたのは1699年だったが、1798年になってやっとナイアガラ運河会社が設立され建設の準備が始められた。最初にその一部が開通したのは1819年で、全通は1825年10月26日。全長363マイル(584キロメートル)、幅40フィート(12メートル)、深さ4フィート(1.2メートル)で、閘門は83箇所あり、それぞれ幅90フィート(27 メートル)、高さ15フィート(4.5メートル)となっている。通航可能な船の排水量は75米トン(68メートルトン)。

エリー運河は東海岸とその西側の内陸部との間の交通手段として、動物に曳かせる荷車より速く、当時の荒地を行くよりも輸送費用が95パーセント節約できた。派生的にニューヨーク州西部への人口移動がおこり、さらに西の領域へ開拓の道を開くことになった。現在はニューヨーク州運河システムの一部となっている。
歴史
提案と計画

イギリス1761年に完成し、炭鉱とマンチェスターを繋いだブリッジウォーター運河の華々しい成功は、18世紀後半のイギリスで運河建設のブームを生んだ。アメリカ東海岸と新しい西の開拓地を結ぶために運河、あるいは人工的に改良された水路を造るという考え方は、1724年にキャドワルダー・コールデンがモホーク川を使った案を提案したが宙に浮いていた。ジョージ・ワシントンポトマック川を使って西部に航行できるようにする案を考え、1785年から彼の死ぬ15年後までパトーマック会社に少なからぬ労力と資本を注入した。ブリッジウォーター運河について詳しかったクリストファー・コールズがモホーク川渓谷を測量し、1784年にニューヨーク州議会に対してオールバニオンタリオ湖を結ぶ運河の提案を行った。この提案は相当な関心を引き行動に移されたものもあったが、結局は何も生み出さなかった。ガバヌーア・モリスとエルカナー・ワトソンも早くからモホーク川を使った運河を提案しており、二人の努力でウエスターン・インランド・ロック・ナビゲーション会社が創設され、モホーク川を改良する最初の取り組みが行われた。しかしこの会社で分かったことは、このような大きさの事業に対して私的な財源では不適だということだった。

起業家ジェシー・ホーレーはその努力が直接運河に向けられた提案者だった。ホーレーはニューヨーク州北部の平原(当時はほとんど未開だった)で大量の穀物を育て、東海岸で売ることが出来ると考えた。しかし、ホーレーは穀物を海岸まで運ぶ事業をやっていて破産し、カナンデイグア債務者刑務所にはいっている間に、モホーク川渓谷を使った運河の建設を提案し始めた。ホーレーはバタビアのホランド・ランド会社の代理人ジョセフ・エリコットの強い支持を取り付けた。エリコットは運河を造れば自分が売っているニューヨーク州西部の土地の価値をかなり上げられると考えた。エリコットは後に運河の最初の理事になった。ハドソン川の支流であるモホーク川はアパラチア山脈の北縁にあたり、氷河が溶けた水がニューヨーク州に峡谷を作って、キャッツキル山地アディロンダック山地を分けていた。モホーク川はアラバマ州から北では唯一アパラチア山脈を横切っており、東は既に広く使われているハドソン川に直接繋がり、西はオンタリオ湖かエリー湖に近かった。そこからは内陸部の者や多くの開拓者がこれらの湖に行くことができた。最初のエリー運河断面図

問題は、ハドソン川のオールバニとエリー湖の標高差が約600フィート (183 m)あることだった。当時の閘門は12フィート (3.5 m)までの高低差までなら扱えたので、360マイルの運河には少なくとも50箇所の閘門が必要だった。今日でもそのような運河は費用が掛かって仕方が無いが、1800年にそのような事業はほとんど想像の域を超えていた。当時のトーマス・ジェファーソン大統領は、「ほとんど気違い沙汰に近い」と言ってその提案を話にならないとし、拒絶した。[2]それにも拘わらず、ホーレーはニューヨーク州知事デウィット・クリントンの関心を引き出し、計画の照査の後で賛同を得た。世論は圧倒的にこの計画を愚かなものと見なしていたので、この計画は「クリントンの愚行」とか「クリントンのどぶ」と呼ばれるようになった。1817年、クリントンは運河建設予算に関してニューヨーク州議会の承認を取り付けた。

運河は幅40フィート (12 m)、深さは4フィート (1.2 m)とされ、取り除かれた土壌は堤の歩道を造るために横の斜面に積み上げられた。喫水が3.5フィート (1.07 m)までの艀が歩道上の馬、後にはラバに曳かれて行き来することになった。双方向に行き交うに対し、曳き船道は1つしかなかったので、艀が離合する時は艀が慣性力で動いている間に、牽引用の動物から曳き綱を素早く解いてまた反対向きの動物に付け直すという操作を必要とした。運河の側面は石で固められ、底には粘土を置いた。石の細工には何百人ものドイツ人石工が動員され、運河の工事が完成した後は、ニューヨークの多くの著名な建物の建設に回ることになった。
工事エリー運河閘門の石積み。経路変更で廃棄された。ダーラムビル

工事は1817年7月4日にニューヨーク州ロームで始まった。ロームとユーティカの間の最初の15マイル (24 km)は2年後に開通した。しかし、このペースで工事が進めば、全通まであと30年ばかりを擁することが予測された。大きな問題は長い原生林の木を切り倒すことであり、泥を取り去ることであって、予想以上に進捗を鈍くしていた。その解決方法として、木はその頂上に綱を投げかけてウィンチで引き倒し、切り株は大きな三脚式ウィンチで引き抜くことにした。泥を取り除くためには、大き目の一輪車からラバに引かせた荷車に積み替えさせた。ラバと3人の作業者が組みになって1年に1マイルを進めるようになり、後は人の配置の問題だけになった。

計画を立て工事を監督した者は、測量でも土木工事でも素人であった。当時のアメリカ合衆国には土木技師がいなかった。経路を決めたジェイムズ・ゲッデスとベンジャミン・ライトは判事であり、境界紛争を調停するうちに測量の経験を積んでいた。ゲッデスは、ほんの数時間測量器械を扱ったことがあるだけだった。キャンバス・ホワイトは27歳の駆け出し技師で、クリントンに直談判し、自費でイギリスに行ってそこの運河の仕組みを学んで来させてくれと言った。ネイサン・ロバーツは数学の教師で土地の投機家でもあった。これらの男達が、ロックポートのナイアガラの断崖から、アイアンデコイット・クリークを越すために高い堤を積み上げ、すばらしい用水路でジェネシー川を渡し、リトル・フォールズとスケネクタディの間の固い岩盤を掘りぬいて、すべて向こう見ずな工事を正確に計画通りやり遂げた。[3]ロックポートのナイアガラの断崖を通る5段階の閘門。現在は閘門が無く、過剰水を流す水路として使われている。この左手に1段式の閘門が新たに作られ使われている。

新しい作業者が到着して工事は速度を高めて続けられたが、1819年にカユガ湖の出口にあるモンティズマ湿地に工事が差し掛かった時に、マラリアで1,000名以上の作業者が死に、完全に中断された。工事はハドソン川に向かう下り坂から再開され、冬季に沼地が凍った時に、沼地を抜ける部分を完成させた。

ユーティカからサリナ(シラキュース)に至る中間部は1820年に開通し、直ぐに通航が始まった。東部の250マイル(402 km)、ロチェスターからオールバニまでは1823年9月10日に鳴り物入りで開通した。ウォーターブリートからシャンプレーン湖にむかう南北の部分64マイル (103 km)も同日に開通を宣言した。1824年、運河の全通はまだであったが、「観光客と旅行者のためのポケットガイド、ニューヨーク州の運河の経路と内陸の商業」が熱心な旅行者や土地の投機家のために出版された。おそらくアメリカで出版された最初の旅行ガイドである。

モンティズマ湿地の後、次の難関はナイアガラの断崖を通すことであった。エリー湖の水位まで上げるためには、硬いドロマイト石灰岩の80フィート (24 m)の壁があった。経路には小さな水路から断崖を急に滑り降りる水路があり、ここを5段階の閘門を2列で通し、ロックポートの町の水位まで落した。1つの閘門で12フィート (3.5 m)落とし、5段階で計60フィート (18 m)を降ろして、深く掘られた水路に出た。最後の区間は、もう一つの石灰岩層であるオノンダガ地層を30フィート (9 m)幅で掘り抜くことだった。この掘削には黒色火薬が用いられた。不慣れな作業員がしばしば事故を起こし、時には岩が付近の民家に落ちることもあった。現在のナイアガラ断崖にある1層の閘門

2つの集落が運河の終点になることを競った。ナイアガラ川沿いのブラック・ロックとエリー湖の東端にあるバッファローであった。バッファローは大きな労力を使ってバッファロー・クリークの幅と深さを広げ航海が可能にし、河口には港を造った。バッファローがブラック・ロックを抑え、直ぐに大都市になったばかりでなく、かつての競争相手を飲み込んでしまった。

工事は1825年11月4日に完工した。公式に州を挙げての「大祝典」が催され、運河に沿って祝砲が次々と放たれては下っていき、バッファローからニューヨーク市まで90分間で伝えられた。デウィット・クリントン知事が乗った船を先頭にバッファローをボートの船隊が出発し、10日間を掛けてニューヨーク市に到着したところで、クリントンは「水の結婚式」としてニューヨーク港にエリー湖から持参した水を厳かに注いだ。


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