エリーゼのために
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「エリーゼのために」のその他の用法については「エリーゼのために (曖昧さ回避)」をご覧ください。
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バガテル『エリーゼのために』(:Fur Elise)は、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン1810年4月27日に作曲したピアノ曲。「WoO 59」の番号が与えられているほか、通し番号をつけて『バガテル第25番』と称される場合もある。

@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}日本の一般人にとって、名前と曲が一致するピアノ曲として名高い。[独自研究?]
楽曲の概要

イ短調の属音であるe音と、半音下のdis音が揺れ動き、両手のアルペッジョへと続く主題が特徴的。ヘ長調に開始される愛らしいものと、主音の保続低音が鳴る激しいものと2つのエピソードを持ち、それらと主部との対比が明確で、形式的にも簡素で分かりやすい。

トリル・分散和音・オクターブ・トレモロ・連打音・三度の和音・六度の和音・三連符・半音階と様々な演奏テクニックが盛り込まれている。

さほど演奏の難易度も高くなく、ピアノを習い始めて3年目前後の「ピアノ初級者の練習曲」としても有名である。ただし、メロディーの一部にオクターブの広さがあるため、ある程度の手の大きさが必要であり、小学校高学年くらいにならないと綺麗に弾きこなすことが難しい曲である。

ポコ・モート、イ短調、8分の3拍子ロンド形式
資料と作曲史1808年の最初のスケッチBH 116。ペンは1810年、鉛筆書きは1822年

本曲がベートーヴェンの生前に出版されることはなかった。現存する楽譜には3種類があり、失われた自筆譜を含めて4つの段階が確認できる。
1808年、ベートーヴェンは交響曲第6番のためのスケッチ帳の149ページ第6-7行にこの曲の主旋律を記した[1]。ページは後に切り取られ、現在はベルリン州立図書館所蔵のベートーヴェン自筆スケッチ帳「ランツベルク10」に収録されている。旋律のみで16小節からなり、後のものとは少し旋律が異なっている。

1810年、全曲を記した原稿が2つの段階に分けて書かれた[2]。この楽譜はベートーヴェン・ハウス所蔵で「BH 116」という番号がつけられている[3]。2枚の紙に書かれ、1810年6月15日に初演された『エグモント』作品84や1810年8月3日に完成した行進曲WoO 19のスケッチも同じ紙に記されていることから、1810年春のものと判断される[4]

この原稿がもとになって、現在は失われた自筆譜が書かれたと推測される。この失われた原稿は1867年にルートヴィヒ・ノール(英語版)によって出版された[5]。今日なお、ほとんどがノール版に従って演奏される。ノールによると、楽譜には「Fur Elise am 27 April zur Erinnerung von L. v. Bthvn」(エリーゼのために、4月27日、L.v.ベートーヴェンの思い出として)と記されていたとされ、『エリーゼのために』という通称はこの献辞にもとづくものである。

「BH 116」上には1822年になって手が加えられた。おそらく出版に適するように改訂したのであろう。「12番」という番号がつけられており、おそらくバガテルの最終曲にするつもりだったと思われる。しかしこの1822年版は完成されることがなかった[6][7]

エリーゼの正体エリーザベト・レッケルテレーゼ・マルファッティ

この曲を1867年に出版したルートヴィヒ・ノールによると、楽譜はもとテレーゼ・フォン・ドロスディック(旧姓マルファッティ、1851年没)の物だったが、ミュンヘンのバベッテ・ブレードルに贈られた。グライヒェンシュタイン男爵夫人(テレーゼの妹)は「エリーゼ」が誰であるか記憶していなかったという[8]。曲が有名になると、エリーゼが誰であるかについてさまざまな説が生まれた。

テレーゼ・マルファッティ説
音楽学者のマックス・ウンガーが1923年に述べた説で、「エリーゼのために」は、本来「テレーゼ(Therese)のために」と書かれていたのを、悪筆のために「エリーゼ(Elise)」に読み違えられたと彼は推定した。本曲の原稿はかつてテレーゼ・マルファッティの書庫にあったものであり、テレーゼはかつてベートーヴェンが愛し、1810年には結婚を考えていた女性であった。この説はかつて定説のように扱われたことがあったが、ノールがベートーヴェンの自筆を読み慣れていたこと、「テレーゼに献呈したものではない」とノールが明言していることから、現在は否定されている[9]
バリー・クーパーはこれに対して「エリーゼ」とは当時のドイツ語の詩の中で恋人の女性を指す一般的な語であり、ベートーヴェンは「エリーゼ」という名前でテレーゼを指した、という説を述べている[10]

エリーザベト・レッケル説
ドイツの音楽学者クラウス・マルティン・コーピッツ(ドイツ語版)は、ベートーヴェンがソプラノ歌手エリーザベト・レッケル(ドイツ語版)のために作曲したという新説を発表した。この説は最初2009年6月22日の『デア・シュピーゲル』第26号に載り[11]、翌年自著で発表された[12]。友人ヨーゼフ・アウグスト・レッケルの妹であり、どこまでベートーヴェンと親密な関係であったかは定かでないが、彼の交友関係の中で唯一「エリーゼ」の愛称を持つ人物とされている。この女性はウィーンに滞在していた頃に1813年に作曲家ヨハン・ネポムク・フンメルと結婚した。

エリーゼ・バーレンスフェルト説
2014年、カナダの音楽学者リタ・ステブリン (Rita Steblin) が述べた説。エリーゼ・バーレンスフェルト (Elise Barensfeld) はドイツのソプラノ歌手で、ベートーヴェンの友人であったヨハン・ネポムク・メルツェルとともに各地で興業を行い、1813年までウィーンに住んでいた。テレーゼ・マルファッティとは近所であり、ステブリンによるとおそらくテレーゼはエリーゼにピアノを教えていた[9]

エリーゼ・シャハナー説
2013年、オーストリアの音楽学者ミヒャエル・ローレンツ (Michael Lorenz (musicologist)) が述べた説。彼はエリーザベト・レッケル説を根拠のないものとして否定し、献辞はテレーゼの没後その楽譜の所有者となったルドルフ・シャハナーによって後に書き加えられたとする。シャハナーは楽譜を所有していたバベッテ・ブレードルの婚外子であり、シャハナーの妻と娘はともにエリーゼという名前だった[13]

「エリーゼのために」を原曲とした楽曲

情熱の花」(1959年、カテリーナ・ヴァレンテ。日本ではザ・ピーナッツのカヴァーもヒット)

キッスは目にして!」(1981年ザ・ヴィーナス


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