エリーザベト・シュヴァルツコップ
Dame
Elisabeth Schwarzkopf
DBE
1961年(アムステルダム)
基本情報
出生名Olga Maria Elisabeth Friederike Schwarzkopf
生誕 (1915-12-09) 1915年12月9日
出身地 ドイツ帝国 ポーゼン州
デイム・オルガ・マリア・エリーザベト・フリーデリケ・レッグ=シュヴァルツコップ(Dame Olga Maria Elisabeth Friederike Legge-Schwarzkopf, DBE、1915年12月9日 - 2006年8月3日)は、ドイツ?英国[1]の声楽家(ソプラノ)。音楽教育者。特にドイツ・オーストリアの歌曲の第一人者であり、モーツァルト、ワーグナー、リヒャルト・シュトラウス[2][3]などのオペラやオペレッタにおける優れた歌唱でも知られる。現在でも数多くの重要な音楽評論家、指揮者、声楽家たちなどから、20世紀後半を代表するソプラノ歌手の一人として、重要性はマリア・カラス[4]に匹敵するとみなされている。
姓についてはシュヴァルツコップフまたはシュワルツコップと表記されることがある。
また、英国の市民権を得て、英国で叙勲されていることから、英語読みでデイム・エリザベス・シュワルツコフ, DBEと表記されることがある。
経歴
ドイツでの若年期(英語版、ドイツ語版)(現ポーランド、ヴィエルコポルスカ県)のヤロチン(英語版)(独: Jarotschin, ポーランド語: Jarocin)で、ギムナジウムの教師フリードリヒ・シュヴァルツコップと妻エリーザベト(旧姓フレーリッヒ)の一人っ子として生まれた[5]。幼少期から音楽に興味を持ち、歌の他にピアノ、ギター、ヴァイオリン、オルガンを習った。13歳の時に、マグデブルクで行われたグルックの『オルフェオとエウリディーチェ』の学校公演でエウリディーチェを歌った。
1933年、ナチスが政権を握った直後に、校長を務めていたシュヴァルツコップの父親は、彼の学校でのナチ党会議を拒否したため、当局により解任され、他の教育のポストに就くことも禁止された。17歳のエリーザベトはアビトゥーアを取得した後に医学の道に進んだ可能性があったが、解任された教師の娘として、大学 (Universitat) に入ることを許されず、音楽の勉強を始めた。
1934年、ベルリン高等音楽学校 (Berliner Hochschule fur Musik)[6][7](現:ベルリン芸術大学[8])に入学し声楽を学んだ。最初はコントラルトとして出発し、ルーラ・ミシュ=グマイナーに師事してメゾソプラノとなる訓練を受けた。後に歌手で名教師のマリア・イーヴォギュン、そしてハインリヒ・エゲノルフに師事し、コロラトゥーラ・ソプラノに転向した。また、ゲオルク・フォラートゥーンの歌曲の教室にも通った。
1938年4月15日、シャルロッテンブルクのドイツ・オペラハウス(現:ベルリン・ドイツ・オペラ)でワーグナー『パルジファル』の2番目の花の乙女を歌いデビューした[9]。彼女はベルリンに4年間滞在しているが、1940年に芸術面での突破口が開いた。リヒャルト・シュトラウス『ナクソス島のアリアドネ』踊り子ツェルビネッタでのデビューの際、自身もコロラトゥーラ・ソプラノであるマリア・イーヴォギュンの関心を引き、イーヴォギュンはシュヴァルツコップを自分の個人的な門下生として、ソプラノのレパートリーと歌曲を教えた。同年にシュヴァルツコップはドイツ・オペラハウスとの完全契約を獲得したが、その条件はナチへの入党であった[10]。
シュヴァルツコップは、ときには非難されたことでもあるが、自然な音色というものは重視しなかった。彼女が重視したのはそれぞれの曲に合った精緻な音色と想像力であった。彼女はイタリアオペラのように音色を変化させることはしなかった。最盛期には絶対的に正確な「イントネーション」を持ち合わせていた。彼女は晩年までそれを保持し続けた。 1942年には、カール・ベームのベルリン公演の際にベームの目にとまり、ウィーン国立歌劇場に招かれて契約した。そこで彼女は、モーツァルト『後宮からの誘拐』コンスタンツェを演じ、後にプッチーニ『ラ・ボエーム』ミミ、ヴェルディ『椿姫』ヴィオレッタを歌った[11]。 シュヴァルツコップは、ドイツ帝国の宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルス[12][13]のために5本の長編映画に出演し、演技、歌、ピアノ演奏を披露している[9]。
ウィーンでの活躍