エリュクス_(古代都市)
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エリュクス?ρυξ
山上のアプロディーテー神殿の遺跡
シチリア州における位置
所在地シチリア州トラーパニ県エリーチェ
座標北緯38度2分25秒 東経12度35分25秒 / 北緯38.04028度 東経12.59028度 / 38.04028; 12.59028座標: 北緯38度2分25秒 東経12度35分25秒 / 北緯38.04028度 東経12.59028度 / 38.04028; 12.59028
種類植民都市

エリュクス(ギリシア語:?ρυξ)はシケリア(シチリア)先住民でトロイアの子孫を称するエリミ人が建設した古代都市で、ドレパナ(en、現在のトラーパニ)から10キロメートル、海岸からは3キロメートル離れている。その名前はギリシア神話のエリュクス王に由来する[1]。現在の行政区分ではトラーパニ県エリーチェにあたる。
目次

1 エリュクス山

2 都市建設の伝説

3 歴史

3.1 ギリシア化、カルタゴ化(紀元前460年-紀元前278年)

3.2 ポエニ戦争での破壊(紀元前264年-紀元前241年)

3.3 その後(紀元前80年-現在)


4 神殿(紀元前1300年頃 ? 紀元後54年)

4.1 神殿の場所


5 脚注

6 外部リンク

エリュクス山

エリュクス山[2]は、現在ではサン・ジュリアーノ山と呼ばれているが、起伏の少ない平原に立つ完全な独立峰であるため、実際の標高より高く見え、実際の高さは665メートルに過ぎないものの[3]古代だけではなく近代においても、エトナ火山(3,329メートル)に次いで、シケリアで2番目に高い山とみなされていた[4]。このためウェルギリウスや他のラテン詩人が、エリュクス山をアトス山やエトナ火山と結びつけて語っているのを見ることができる[5]。その山頂にはウェヌスまたはアプロディーテーを讃える神殿がある。現在の伝説によればアイネイアースがこの神殿を建設し[6]ウェヌス・エリュキナという添え名が派生したと、しばしばラテン作家が述べている[7]
都市建設の伝説

ディオドロスが伝える別の伝説によると、街も神殿も名祖となった英雄エリュクスが建設した。ヘーラクレースがシケリアのこの地域を訪れたときに、エリュクスはレスリングの試合を挑んだが敗北してしまい土地を失った。しかしヘーラクレースはエリュクスの領地を自分の子孫がやって来るときまで土地の人間に預けて去った[8]。エリュクスはアプロディーテーとブーテースの間の子であり、この地の王であった。ウェルギリウスはしばしばエリュクスはアイネイアース(半神半人のトロイアの武将)の兄弟であるとほのめかしているが、この街の建設者とは述べていない。このアイネイアースとトロイアの指導者であるエリムス(やはりアイネイアースの兄弟でエリュクスと混同されることがある)とつながる創設伝説は、トゥキディデスが述べるエリュクスとセゲスタ(現在のセジェスタ)は、もともとシケリア先住民であるエリミ人(en)の都市であったという歴史的事実と符合する。また殆どの古代の歴史家がエリミ人はトロイア人の子孫であると述べている[9]

ロドスのアポローニオス叙事詩アルゴナウティカ』には別の説が述べられている。ブーテースはアテナイから来たアルゴナウタイ(航海する英雄)であり、セイレーンの歌声のために船外に落ちてしまった。溺死しそうになったが、キプリス(アプロディーテー)の情けのために救われた。キプリスはブーテースを彼女が治めるエリュクスに運び、リルバイオンの岬に定住させた[10]
歴史
ギリシア化、カルタゴ化(紀元前460年-紀元前278年)

エリュクスがギリシアの植民都市となったことはないが、他のシケリアの都市と同様に徐々にギリシア化していった。しかしながらトゥキディデス(紀元前460年-紀元前395年)は、エリュクスやセゲスタの住民であったエリミ人を、依然として「野蛮人(異言族)」と記述している。それ以前のエリュクスの歴史は不明であるが、おそらくはより強力なエリミ人都市であるセゲスタに従っており、アテナイのシケリア遠征(紀元前415年-紀元前413年)の失敗後はカルタゴの従属的同盟都市となった。紀元前406年にはエリュクスの沖合いでカルタゴとシュラクサイの海戦が行われ、シュラクサイが勝利している[11]紀元前397年にシュラクサイのディオニュシオス1世がシケリア西部への大遠征を開始すると、モティア包囲戦の直前にディオニュシス軍に加わった。モティアは陥落したものの、翌年にはカルタゴがヒミルコ率いる大軍を派遣してモティアを奪回し、エリュクスもカルタゴ側に戻った[12]。ディオニュシオスは死の直前にもシケリア西部に遠征し、一時的にエリュクスを支配しているが[13]、直ちにカルタゴが奪回し、エピロスピュロスの遠征(紀元前278年)までカルタゴ支配が続いたと思われる。そのとき、エリュクスには自軍の兵だけでなくカルタゴから強力な援軍が派遣されており、地形的な有利さも手伝ってピュロスに大いに抵抗した。しかし、ピュロス自身が攻撃部隊を率いて突撃し、ヘーラクレースの子孫を自負する自己の能力を見せ、エリュクスを陥落させた[14]
ポエニ戦争での破壊(紀元前264年-紀元前241年)

第一次ポエニ戦争紀元前264年-紀元前241年)発生時には、エリュクスは再びカルタゴの手にあったことがわかっている。紀元前260年に、カルタゴの将軍ハミルカルが近隣に港湾都市ドレパナを建設し、住民をそこに移してエリュクスを破壊した。しかし、古い都市は完全には破壊されなかったようで、数年後にローマ執政官(コンスル)ルキウス・ユニウス・プッルス(紀元前249年の執政官)が自身を神殿と都市の最高管理官に任じている[15]。神殿は強固に要塞化されていたようで、また山の頂上に位置することから、軍事的に強力な拠点とすることができた。このためハミルカル・バルカは長い間保持していたエルクテ山の拠点から突然にエリュクスに兵を動かし、山頂の神殿を攻略してそこを拠点としようとした。しかし、紀元前244年にエリュクスの占領には成功したものの、都市はエリュクス山の中腹にあったため、頂上にある神殿と要塞を攻略することはできなかった。他方でハミルカルはドレパナを維持し、エリュクス山麓のローマ軍に包囲はされていたものの、海上交通は維持されており、ドレパナおよびエリュクスが最終的に開城したのは、アエガテス諸島沖の海戦でローマ海軍が勝利し、カルタゴが講和を求めた後であった[16]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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