エリック・ドラモンド_(第7代パース伯爵)
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The Right Honourable
第7代パース伯爵
ジェームズ・エリック・ドラモンド
GCMG, CB, PC, DL
エリック・ドラモンド(1918年頃)

初代 国際連盟事務総長
任期
1920年 ? 1933年
代理官ジャン・モネ
ジョセフ・アヴェノル
前任者(新設)
後任者ジョセフ・アヴェノル

個人情報
生誕 (1876-08-17) 1876年8月17日
イギリスイングランド、フルフォード(英語版)
死没1951年12月15日(1951-12-15)(75歳)
イギリスイングランドサセックス
国籍イギリススコットランド
配偶者Angela Mary Constable-Maxwell

第7代パース伯爵ジェームズ・エリック・ドラモンド[注釈 1](James Eric Drummond, 7th Earl of Perth GCMG, CB, PC, DL1876年8月17日 - 1951年12月15日)は、イギリス政治家外交官である。国際連盟の初代事務総長(1920年 - 1933年)を務めた。
若年期とキャリア
家族

エリック・ドラモンドは、スコットランド貴族のドラモンド家(英語版)に生まれた。父は、パースシャー州マチャニーの陸軍士官だった第10代ストラサラン子爵(英語版)ジェームズ・デイヴィッド・ドラモンド(1839年-1893年)、母はその2番目の妻でパースシャー州メスベン城のウィリアム・スマイスの娘のマーガレット・スマイスである。2人の間にはエリック・ドラモンドの他に2人の娘がいた。また、父の最初の妻であるエレン・ソーンヒルとの間に、異母兄ウィリアム・ハントリー・ドラモンドと2人の異母姉がいた[1]。異母兄ウィリアムは1893年に父の後を継いでストラサラン子爵となり、1902年には遠い従兄弟である第5代パース伯爵ジョージ・ドラモンドの後を継いで第6代パース伯爵となった。1937年8月20日に異母兄ウィリアムが亡くなったため、エリック・ドラモンドが第7代パース伯爵を継承した[2]

ドラモンドはプロテスタントの家庭で育ったが、1903年にカトリックに改宗した[2]。このことは、1933年頃に、駐米大使候補だったドラモンドに対してラムゼイ・マクドナルド首相が拒否権を行使するなど、後のキャリアに支障をきたしたと言われている[3]。ドラモンドが改宗したのは、カトリック教徒のアンジェラ・メアリー・コンスタブル=マクスウェル(1877年-1965年)と結婚するためと推測される。
教育と初期のキャリア

ドラモンドはイートン・カレッジで教育を受け、1895年に卒業した。イートン・カレッジでフランス語を学んだことが、後に国際外交のキャリアにおいて重要なツールとなった[4]。ドラモンドは、国際連盟の事務総長を13年間務めたことで知られているが、それ以前には、ハーバート・ヘンリー・アスキス首相を始めとするイギリスの政治家や外交官の秘書官として活躍していた。

1900年4月20日、ドラモンドは外務省に事務官として入省した[5][6]。1906年から1908年まで、外務大臣エドモンド・ペティ=フィッツモーリス(英語版)の秘書官を務めた。1908年から1910年までは、外務大臣エドワード・グレイの要約筆記者と政務次官トマス・マキノン・ウッドの秘書官を兼任した。1912年から1918年にかけては、アスキス首相、グレイ外務大臣、アーサー・バルフォア外務大臣の秘書官を務めた[5]。1917年4月から5月にかけては、第一次世界大戦中の英米間の協力関係を促進することを目的としたバルフォア外交団(英語版)の一員として活動した。1918年から1919年にかけては、パリ講和会議の英国代表団の一員として、国際連盟規約の起草に携わった[7]

1919年、ロバート・セシルの推薦により、国際連盟事務総長の職を引き受けた[5][7]
国際連盟でのキャリア
国際連盟事務総長への選出

1919年のパリ講和会議を前に、設立されたばかりの国際連盟の事務総長にふさわしい候補者の選考は難航していた。国際連盟規約の起草や国際連盟の組織化に重要な役割を果たしたロバート・セシルは当初、国の公職経験者が就くのが望ましいと考えていたが、選定した候補者は誰も引き受けようとしなかった。

セシルは、最高の能力を持った人物でなければ、この役割を果たせないと考えていた。しかし、当初考えていたほどの権限が事務総長に与えられないことを受けて、セシルは考えを改め、習熟した公務員で、政治家としての知名度が低い人物から候補を探すことにした。最初に声をかけたのはモーリス・ハンキー(英語版)で、ハンキーも興味を示していたがパリ講和会議の10日前になってオファーを断った[8]。セシルはハンキーが辞退するという不測の事態には、エリック・ドラモンドを起用することを想定していた[9]

ドラモンドは、1915年の時点で、国際組織の設立に好意的な姿勢を示していた[10]。そのため、ドラモンドは国際連盟設立の交渉に参加していた。また、ドラモンドがイギリス人であることも、セシルが高く評価していた点である。ドラモンドは外交官としての経験が豊富で、19年間の外務省勤務で高い評価を得ていたこともあり、最適な人材と考えられた。当初、ドラモンドは国際連盟の運営に不安を感じていたが、最終的にこの提案を受け入れた。1919年4月28日のパリ講和会議の本会議で、国際連盟の初代事務総長にドラモンドを任命することが承認された[11]
常設事務局の設置(1919年?1920年)ドラモンドが設立した国際連盟事務局の組織図(1930年当時)[12]

ドラモンドの事務総長としての主要な功績の1つは、恒久的かつ厳密に国際的な事務局の設立である。このような試みはこれまでになく、第一次世界大戦以前の国際組織の事務局は、供給者もそこで働く公務員も、ほとんどが国内に限定されていた[13]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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