エリック・シプトン
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2014年4月)

エリック・アール・シプトン(Eric Earle Shipton、1907年8月1日 - 1977年3月28日)はイギリス登山家。1930年代から1950年代のイギリスによるエベレスト遠征において主導的な役割を果たしたにもかかわらず、エベレスト初登頂を成し遂げた1953年遠征隊の隊長選出時にメンバーからはずされた悲劇の人物。シプトンはヒマラヤ山脈だけでなく、ヨーロッパ中央アジアからパタゴニアまで世界各地を歩いた登山家・探検家であり、多くの登山記録・探検記録を残した著述家でもあった。また、エベレスト初登頂をとげたエドモンド・ヒラリーシェルパテンジン・ノルゲイを初めてイギリス隊に迎えたのもシプトンであった。
生涯
生い立ち、登山との出会い

シプトンは1907年8月1日、セイロン(現スリランカ)で茶園を経営していた両親の間に生まれたが、三歳で父と死に別れ、母は姉と幼いエリックを連れてインド各地をまわった。8歳のとき、イギリスで教育を受けさせたいという母の希望によって帰国し、寄宿舎学校に入った。その後、ピットハウス校に進み、学校の休暇を利用してはアルプスの山々を歩いた。ケンブリッジ大学に進学を望んだが果たせず、父のように植民地農園を経営しようと決意し、1928年ケニアニエルにあるコーヒー農園に職を得た。

当時植民地省の弁務官としてケニアのカカメガで働いていたパーシー・ウィン・ハリスが登山家として知られていたので、シプトンは自分も登山をする旨を手紙に書いて出した。すると、ウィン・ハリスから思いがけずケニア山登山の誘いが来た。最高峰バティアンはすでに1899年ハルフォード・マッキンダーによって登頂されていたが、第二峰のネリオンは未踏だったため二人はここを目指した。二人はネリオンに登り、そこからバティアンの頂上へ達した。このケニア山行は当時の新聞にとりあげられた。そしてこの記事を読んで、シプトンに接触してきたのが、後に彼の重要なパートナーとなるビル・ティルマン(Bill Tilman )であった。実際に会った二人は意気投合し、二人でキリマンジャロなどアフリカの山々に登った。
アジアへ、エベレストへ

シプトンやティルマンは自分たちの登山記録をイギリスの登山雑誌に寄稿していたが、この記事が当時のイギリス登山界の重鎮フランク・スマイス(Frank Smythe )の目にとまり、ガルワール・ヒマラヤにあるカメット(Kamet )山(標高7,756 m)遠征への参加を要請された。シプトンはスマイス、R.L.ホールズワース、レワ・シェルパと共にカメット登頂に成功した。これは当時登頂された最も高い山だった。遠征が無事終了したことで、シプトンは1932年エベレスト委員会のウィリアム・グッドイナフ卿から1933年のエベレスト遠征隊への参加を打診されることになる。こうしてシプトンは26歳にしてエベレストへの道を踏み出した。1933年隊はヒュー・ラットレッジを隊長とし、隊員としてシプトンのほか、スマイス、ウィン・ハリス、ジャック・ロングランド、レイモンド・グリーン、ローレンス・ウェイジャー、エドワード・シェビア、トム・ブロックルバンク、1922年隊にも参加したコリン・クロフォードらが選ばれた。この遠征では高度8,570 mが最高で登頂できなかったが、ウィン・ハリスが頂上近くで1924年隊のアンドリュー・アーヴィンのものとされるアイス・アックスを発見したことで有名になった。

1934年、ティルマンとともにガルワール地方にあるナンダ・デヴィ山の内院、リシ・ガンガ川の流域の探索で内院に達した二人はアラクナンダ川の西にあるケダルナート山域へ足を伸ばし、内院の出口を発見して帰国し、その名を知らしめた。後の著作『ナンダ・デヴィ』はこの時のことである。

1935年、登頂目的でなくシプトンをリーダーに、エベレストのモンスーン時の気候を調査する目的で小規模な遠征隊が派遣された。彼らはノース・コルのふもとでテントに包まれたモーリス・ウィルソンの遺体と日記を発見。隊員にはティルマンもいた。またこの時シプトンがニュージーランド出身のダン・ブライアントを気に入ったことが、後にエドモンド・ヒラリーが遠征隊に参加する道を開くことになる。有名なテンジン・ノルゲイが若手シェルパとして初めて参加した。

1936年、イギリス第六次遠征隊に参加。1933年の失敗を批判されて以来、隊長就任を固辞していたラットレッジが適任者不在を理由で再び隊長に引っ張り出された。隊員としてスマイス、ウィン・ハリス、チャールズ・ウォレン、ピーター・オリヴァーなどシプトンにとって気心の知れた仲間が参加した。シプトンはティルマンの参加も希望したが、彼はナンダ・デヴィへ向かい、不参加となった。日程の当初はも少なく天候にも恵まれて成果が期待されたが、直後に例年よりも早いモンスーンが到来したため、隊はほとんど何も成果を得られず解散した。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:19 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef