エリオット・B・ルーズベルト
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エリオット・ルーズベルト
Elliott Roosevelt
エリオット・ルーズベルトと娘のエレノア(1889年)
生誕 (1860-02-28) 1860年2月28日
死没1894年8月14日(1894-08-14)(34歳)
教育セント・ポールズ・スクール
著名な実績セオドア・ルーズベルトの弟
エレノア・ルーズベルトの父
配偶者アンナ・レベッカ・ホール(英語版)
(m. 1883; d. 1892)
子供

エレノア・ルーズベルト

エリオット・ルーズベルト・ジュニア

ホール・ルーズベルト(英語版)

エリオット・ルーズベルト・マン

親セオドア・ルーズベルト・シニア(英語版)
マーサ・スチュアート・ブロック(英語版)
家族ルーズベルト家
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エリオット・ブロック・ルーズベルト(Elliott Bulloch Roosevelt[注釈 1]1860年2月28日 - 1894年8月14日)は、アメリカ合衆国ソーシャライトである[2]。第26代アメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトの弟であり、第32代大統領フランクリン・ルーズベルトの妻エレノア・ルーズベルトの父である。
若年期

エリオット・ルーズベルトはセオドア・ルーズベルト・シニア(英語版)(1831?1878)とマーサ・“ミッティー”・スチュアート・ブロック(英語版)(1835?1884)の間に生まれた4人の子供のうちの3番目の子供である。兄セオドア・ジュニアのほかに、姉のアンナ(英語版)(通称ベイミー)と妹のコリーヌ(英語版)がいた。母の兄弟のアーバイン(英語版)(1842?1898)とジェームズ(英語版)(1823?1901)は南北戦争南軍の退役軍人である。

エリオットは1875年9月にニューハンプシャー州コンコードセント・ポールズ・スクールに入学した。学業成績は優秀だったが、病気のため退学し、実家に戻った[3]

兄セオドアとは常に競争関係にあった。若い頃は、学問においてエリオットの方が勝っていたが、最終的には大統領となった兄の方が大成した。この競争は、両者の子供の世代に持ち越された。

エリオットは生涯に渡り魅力的で愛嬌のある性格を保っていたが、その影で、若い頃から続けていた飲酒の習慣が次第に問題となっていった。
私生活エリオットとその3人の子供。左からホール(英語版)、エレノア、エリオット・ジュニア(1892年)

1876年と1877年にテキサスへ2度の狩猟旅行を行い、1878年に父が亡くなると、相続した財産でインドへ虎狩りに出かけるなど、エリオットは浪費を続けた[4]

1880年10月27日、兄セオドアがアリス・ハサウェイ・リーと結婚し、エリオットは兄のベストマン(新郎介添人)を務めた。

1883年[5]、エリオットはヴァレンタイン・ホール・ジュニア(英語版)の娘のアンナ・レベッカ・ホール(英語版)(1863?1892)と結婚した。結婚式はニューヨークのカルバリー教会で1883年12月1日に行われた[6]。アンナとの間に以下の3人の子供をもうけた。

エレノア・ルーズベルト(1884年10月11日 - 1962年11月7日)[7]

エリオット・ルーズベルト・ジュニア(1889年9月29日 - 1893年5月25日)[8]

ホール・ルーズベルト(英語版)(1891年6月28日 - 1941年9月25日)[9]

1889年に第2子が生まれてから、エリオットの飲酒は酷くなり、ついにはアルコール依存症となった。なお、息子のホールも後にアルコール依存症になっている[10]。アルコール依存症の治療のために、一家でオーストリアに移住し、3か月後にパリに移り住んだ。1889年に第3子が生まれてすぐ、アンナとエリオットは別居した。

1892年、別居中の妻のアンナがマンハッタンの自宅で死亡した[11]。1893年にはエリオット・ジュニアが猩紅熱により3歳で死去した。

1892年、アルコール依存症のため、エリオットはバージニア州アビングドン(英語版)の精神病院に入院させられた。入院の際は母の兄弟が付き添った[12]。病院からは家に宛ててよく手紙を出していたが、その内容は主に娘のエレノアに対しての物だった。エリオットは数日間家に戻ることがあり、エレノアは大喜びした。

エリオットは、アンナが雇っていた若い使用人のケイティ・マンと関係を持ち、息子のエリオット・ルーズベルト・マン(1891-1976)が生まれた。兄セオドアは探偵を使ってその子供について調べさせ、1万ドルでケイティと示談を成立させた。この金額は子供のために信託されたが、マン家によれば、ケイティの弁護士がこの金を略奪したと見られ、エリオット・マンは一切受け取っていないという。エレノアは異母弟のエリオット・マンと文通をしていた[13][14]
死去

1894年8月13日、34歳のエリオットは自殺を図って窓から飛び降りた。このときは一命をとりとめたものの、翌日、心臓発作を起こし、その日の夜に心不全で死亡した。このときにはアルコール依存症が更に悪化しており、毎日シャンパンブランデーのボトルを何本も開けていた[15][16]。遺体は、妻のアンナとともに、ニューヨーク州ティボリのセント・ポール・エピスコパル教会にある母方のホール家の納骨所に埋葬された。残された2人の子供は、ニューヨーク州ティボリのホール家で育てられた。
脚注[脚注の使い方]
注釈^ ミドルネームはなかったとする説もある[1]

出典^ Child, Christopher C. (2022年3月14日). “Roosevelts without middle names”. Vita Brevis. 2022年3月14日閲覧。
^ Beasley, Maurine Hoffman (2001). The Eleanor Roosevelt Encyclopedia. Greenwood Publishing Group 
^ Miller, Nathan (1992). Theodore Roosevelt, A Life. William Morrow and Company Inc. 
^ Bruce Cammack (2019年6月29日). “The Texas Adventures of Elliott Roosevelt, Part 2.”. The Caprock Chronicle in Lubbock Avalanche-Journal. 2019年6月30日閲覧。
^ Spinzia, Raymond E.. “ ⇒Elliott Roosevelt, Sr. ? A Spiral Into Darkness: the Influences”. The Freeholder. 2010年7月1日閲覧。
^ “ ⇒First Lady Biography: Eleanor Roosevelt”. National First Ladies' Library. The National First Ladies' Library. 2015年9月9日閲覧。


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