エラスムス
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デジデリウス・エラスムス1523年のエラスムス
ハンス・ホルバイン作)ナショナル・ギャラリー (ロンドン)
別名ロッテルダムのエラスムス
生誕 (1466-10-28) 1466年10月28日
死没 (1536-07-12) 1536年7月12日(69歳没)
バーゼル
時代ルネサンス
研究分野キリスト教哲学、ルネサンス人文主義
影響を受けた人物

ピコ・デラ・ミランドラジョン・コレット

影響を与えた人物

トマス・モアマルティン・ルターウィリアム・ティンダル

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デジデリウス・エラスムス(Desiderius Erasmus Roterodamus, 1466年10月28日 - 1536年7月12日[1])は、ネーデルラント出身の人文主義者、カトリック司祭、神学者、哲学者。ギリシャ語新約聖書「公認本文」の著者。ラテン語名には出身地をつける当時の慣習から「ロッテルダムのエラスムス」とも呼ばれる。なお、名前の「エラスムス」は洗礼名でカトリック教会聖人であるフォルミアのエラスムス (Erasmus of Formiae) からとられているが、「デジデリウス」は1496年から自分自身で使い始めた名前である。

主な著作に『痴愚神礼賛』(Moriae encomium)、『エンキリディオン』(キリスト教戦士の手引き、Enchiridion militis Christiani)、『平和の訴え』などがあり、著作の中では一貫して「キリスト者の一致と平和」をテーマとした。また、エラスムスの『校訂版 新約聖書』(新約聖書のラテン語・ギリシア語対訳、Novum Instrumentum)は広く読まれ、マルティン・ルターのドイツ語訳聖書の原版になった。エラスムスの思想は宗教改革運動と対抗宗教改革運動の双方に大きな影響を与えた。『ユートピア』を著したトマス・モアとの親交や自由意志に関するルターとの論争でも知られる。

宗教改革の時代を生きたエラスムスは「カトリック教会を批判した人文主義者」と表現されることが多いが、実際にはローマ教皇庁を含めカトリック教会内に知己が多く、生涯を通してカトリック教会に対して忠実であり、カトリック教会の諸問題を批判しながらも中道を標榜してプロテスタント側に身を投じることはなかった。

エラスムスは1536年にバーゼルで逝去し、もともとカトリック教会のバーゼル司教座聖堂だった教会に埋葬された。

エラスムスは、1529年の『幼児教育論』で、子供といえども一個の人間であり、かかる存在として扱うべしと説き(手間時間など)、中世以来続いてきたによる非人間的で、容赦のない教育を非難した(体罰は行うべきで無い)。それは、自由人にふさわしい教育方法とは言えず、人間を奴隷化するものだとした。人類の歴史上最初の、最もはっきりとした子供の人権宣言である[2]

エラスムスのコレクションは2023年に世界の記憶に登録された[3]。詳細は「西洋教育史#(ルネサンス・宗教改革期の教育)」を参照
生涯と思想
生い立ちから青年期まで.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

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出典検索?: "デジデリウス・エラスムス" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2016年3月)

1469年(1466年とか1467年とする説もある)、エラスムスは父ロゲル・ゲラルド (Roger Gerard) と母マルガレータの私生児としてロッテルダムで生まれた。父は高名な司祭、母は医師の娘だった[4]。エラスムスにはピーテルという名の兄がいた。1483年、この年に流行した疾病で両親を亡くした。エラスムスと兄は後見人により共同生活兄弟団付属の寄宿学校に入れられ、「デヴォツィオ・モデルナ」(Devotio Moderna:新しき信心)の教育を受けた。

1487年、親族の意思に従ってデルフトに近いステインにあった聖アウグスチノ修道会の修道院に入った。このころからラテン語の古典を読み漁り、イタリアに行きたいという望みをもつようになった。キケロ、クィンテリアヌス、アウグスティヌスヒエロニムスなどの研究に没頭する。古典教養の重要性を説く『反蛮族論』の執筆を始める。

エラスムスは修道会司祭として生きていくことが本意ではなく、修道会を離れる機会を狙っていた。彼は1492年に司祭叙階を受けると、卓抜したラテン語能力を認められてカンブレー (Cambray) の司教秘書に抜擢され、合法的に修道会を離れることができた[5]1495年にはカンブレー司教の許しを得、神学博士号の取得を目指してパリ大学へ入学し、モンテーギュ学寮に入った(モンテーギュ学寮では後にジャン・カルヴァンイグナティウス・ロヨラも学んでいる)。1496年から自らを「デジデリウス」と名乗るようになり、『古典名句集』(Collectanea Adagiorum) を書き始める。
人文主義者としての名声

貧しかったエラスムスはパリへ出てラテン語の個人教授を始めた。これが縁となって1499年にイングランドへ渡り、同地の上流社会に多くの知己を得た。人文主義者ジョン・コレット (John Colet)、終生の友となった政治家トマス・モア、若きヘンリー王子(後のヘンリー8世)などと交わった[6]。ジョン・コレットは当時オックスフォード大学で教鞭をとっており、エラスムスは彼の聖書研究の方法論(当時の主流であったスコラ学的アプローチでなく、サン・ヴィクトル学派の流れを汲んでいた)に影響されている。ジョン・コレットはエラスムスのギリシア語の知識不足を指摘し、さらに研鑽を積むよう促す。エラスムスは聖書研究に着手し、キリスト教的著作を発表するようになる。1500年に『古典名句集』、1504年には一般信徒向けの信心書である『エンキリディオン』 が出版されると、エラスムスの名声は高まっていった。

さらに同年、ルーヴァンでロレンツォ・ヴァッラの手による『新約聖書註解』の写本を見出したことは彼の人生の方向を決める出来事となった[7]

1506年には少年時代から憧れたイタリア行きを果たし、訪れたトリノ大学で神学博士号を授与された。その後イギリスに向かうためアルプスを越えたが、その道中で『痴愚神礼賛』の構想を得たという[8]。これは古典をモチーフにしながら、エラスムスの風刺とユーモアの精神が遺憾なく発揮された作品となった。

1514年イギリスを離れてスイスのバーゼルに到着したエラスムスは書店店主ヨハン・フローベン (Johan Froben) と知り合う。


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