エメリヤーエンコ・ヒョードル
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エメリヤーエンコ・ヒョードル
2012年
本名フョードル・ウラジーミロヴィチ・エメリヤーネンコ
: Фёдор Влади?мирович Емелья?ненко)
: Fedor Vladimirovich Emelianenko)
生年月日 (1976-09-28) 1976年9月28日(47歳)
出身地 ソビエト連邦
ルハンシク州ルビージュネ
通称ロシアン・ラストエンペラー[1]
The Last Emperor[2]
60億分の1の男[1]
人類最強の男[3]
氷の皇帝[4]
居住 ロシア
ベルゴロド州スタールイ・オスコル
国籍 ロシア
身長183 cm (6 ft 0 in) [2]
体重101 kg (223 lb) [2]
階級ヘビー級
リーチ193 cm (76 in)
スタイルサンボ
柔道
スタンスオーソドックス
拠点 ロシア
ベルゴロド州スタールイ・オスコル
チームリングス・ロシア
ロシアン・トップチーム
レッドデビル・スポーツクラブ
→チーム・ヒョードル
師匠ヴォルク・ハン
アンドレイ・コピィロフ
トレーナーウラジミール・ヴォロノフ (柔術、サンボ)
アレクサンダー・ミチュコフ (ボクシング)
ピーター・タイセー (ムエタイ)
アーネスト・ホースト (キックボクシング)
ランクサンボ (スポーツマスター)
柔道 (黒帯、スポーツマスター)
現役期間2002年 - 2012年
2015年 - 2023年

総合格闘技記録
試合数48
勝利40
ノックアウト16
タップアウト15
判定9
敗戦7
ノックアウト6
タップアウト1
無効試合1
その他
職業体力・スポーツ評議会 (2012年 - )
ロシアMMAユニオン (会長、2012年 - 2018年)
ベルゴロド地域下院 (副議長、2010年 - )
M-1グローバル (共同所有者、2007年 - )
ロシア陸軍 (戦車師団、1995年 - 1997年)
配偶者マリーナ (2009年・結婚 - 2013年・離婚)
オクサナ (1999年・結婚 - 2006年・離婚、2014年・再婚)
子供マーシャ (1999年・誕生)
ヴァシリーサ (2007年・誕生)
エリザベス (2011年・誕生)
著名な親族エメリヤーエンコ・アレキサンダー (弟)
エメリヤーエンコ・イワン (弟)
著名な弟子ワジム・ネムコフ
ヴィクトル・ネムコフ
キリル・シデルニコフ
ワレンティン・モルダフスキー
マキシム・グリシン
ウェブサイト ⇒http://www.fedoremelianenko.tv/eng/
総合格闘技記録 - SHERDOG
獲得メダル

ロシア
男子コンバットサンボ
世界選手権
銅2008 サンクトペテルブルク100kg超級
金2007 プラハ100kg超級
金2005 プラハ100kg超級
金2002 パナマシティ100kg超級
金2002 テッサロニキ100kg超級
欧州選手権
金1999 イスタンブール100kg超級
ロシア選手権
金2012 モスクワ100kg超級
金2009 クストヴォ100kg超級
金2008 サンクトペテルブルク100kg超級
金2007 ウラン・ウデ100kg超級
金2005 クストヴォ100kg超級
金2002 モスクワ100kg超級
銅2000 オレンブルク100kg超級
柔道
ロシア選手権
銅1999 クストヴォ無差別級
銅1998 クストヴォ100kg未満級

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エメリヤーエンコ・ヒョードル[† 1]: Фёдор Емельяненко、: Fedor Emelianenko、1976年9月28日[2] - )は、ロシア[† 2]男性総合格闘家サンビスト、元柔道家。チーム・ヒョードル主宰。元PRIDEヘビー級王者。元WAMMA世界ヘビー級王者。元リングス無差別級王者。元リングスヘビー級王者
概要

柔道の国際大会で活躍したのち総合格闘技に転向、2000年リングスの大会で来日、ヘビー級と無差別級の王座に就く。2002年のリングス休止以降はPRIDEに出場し、2003年アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラを下しヘビー級王座を獲得した。2004年にはヘビー級グランプリに優勝、2005年にはミルコ・クロコップを下し王座を防衛した。2007年のPRIDE消滅後は日本国外の大会に出場、2008年にはAfflictionで元UFCヘビー級王者ティム・シルビアを破りWAMMA世界ヘビー級王者となっている。その後も、2009年にはアンドレイ・アルロフスキーに勝ち、WAMMA王座の防衛に成功。2010年に敗れるまで10年間無敗という記録を作った。

PRIDE王者時代から2010年に敗れるまでは日本だけでなくアメリカなどのメディアからも「総合格闘技界最強」と評価され、多くのメディアのランキングにおいてヘビー級で世界1位にランクインしていた[5]

2009年にロシア政府認定の投票によりテニスのスベトラーナ・クズネツォワと共にロシアのベスト・アスリートに選ばれている。また、ロシアの長年活躍したトップアスリートだけに送られるスポーツマスターの称号を持ち、プロ格闘家として活動する傍らコンバットサンボの大会にも出場し、世界選手権で4度の優勝を果たしている。

2022年4月、4年間務めたロシア総合格闘技連合MMA(英語版)監査部門の会長を電撃辞任したが理由は明らかにしておらず、直後にロシアMMAのラドミール・ガブドゥリン(英語版)会長がロシア格闘技界は一丸でウラジーミル・プーチン大統領に忠誠を誓うとコメントしたこともあり、同年2月より続いているロシアによるウクライナ侵略との関係も取り沙汰された[6][7]
来歴
プロデビュー以前

1976年ウクライナ・ソビエト社会主義共和国ルハンシク州ルビージュネに生まれた。姉1人、弟2人の4人兄弟であった。2歳の時に家族とともにロシア・ソビエト連邦社会主義共和国ベルゴロド州スタールイ・オスコルに移住し[8]、11歳になってサンボ柔道を始めた。1991年に高校を卒業、1994年には専門学校を卒業する[8](2008年にベルゴロド州立大学(英語版)を卒業している)。1995年から1997年[8] まではロシア陸軍の消防隊と戦車軍に入隊し、曹長で兵役を終える[9]。その後は柔道・サンボ両方の大会で活躍した(詳細は#獲得タイトルを参照)。当時は後に世界柔道選手権を制するアレクサンドル・ミハイリンとはライバル関係にあるなどヨーロッパではトップクラスの実力を有していたものの、国からの補助金が出なくなったため柔道を続けるには経済的な問題が生じていた。ヒョードルは「国の支援が続いていれば柔道を辞めずにオリンピックを目指していたかもしれない」と語っている[10]
リングス

2000年初頭にニコライ・ピチコフの誘いでヴォルク・ハン率いるリングス・ロシア(現ロシアン・トップチーム)を見学し総合格闘技に興味を持ち、ヒョードルはこのジムで練習を始めた[10]。またリングスのスカウトオーディションに参加し、前田日明からバラチンスキー・スレン[† 3] に次ぐ評価を受け日本大会への出場が決まった[11]。同年5月にはリングスのロシア大会で総合格闘技デビュー。9月5日には日本大会で初来日を果たし高田浩也(英語版)[† 4]と対戦、開始12秒で左右のフックによるKO勝利を収めた[13]。同年12月22日、「KING of KINGSトーナメント」の1回戦でヒカルド・アローナに延長の末、3-0の判定勝ち[14]。同日に行われた2回戦では高阪剛と対戦するも、出会い頭に目尻をカットし、試合開始17秒でカットのためドクターストップによるTKO負けとなった。しかし実際のところ、このカットは本来反則であるはずの高阪の肘が偶然で当たったものであり、高阪自身も後にアクシデントだったと認めている。

2001年は4月20日からヘビー級王座決定トーナメントに出場する。1回戦ではケリー・ショールに勝利し[15] 8月11日の決勝大会に進出すると、準決勝ではトーナメント本命と目されていた[16] レナート・ババルに判定勝利し、決勝では対戦相手のボビー・ホフマンが左肩脱臼のため棄権し不戦勝[17] となり、初代リングス世界ヘビー級王者に就いた。その後10月20日には無差別級王座決定トーナメントにも出場、1回戦では柳澤龍志[18]、準決勝ではリー・ハスデルに勝利し[19]、決勝戦に進出した。リングス最後の興行となった2002年2月15日の決勝戦ではクリストファー・ヘイズマンと対戦、2度のダウンとロープエスケープでポイントアウトに追い込み、リングス2冠を達成した[20]
PRIDE

リングスが活動停止となると、2002年6月23日のPRIDE.21においてPRIDE初参戦。当時パンクラス無差別級王者だったセーム・シュルトに30cmのリーチ差をものともせず、グラウンドのポジショニングで優位に立って判定勝ち、PRIDEデビューを飾った[21]。同年11月24日のPRIDE.23では、ヒース・ヒーリングをパウンドの連打によるドクターストップでTKO勝利し、ヘビー級王座挑戦権を獲得した[22]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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