エメリヤーエンコ・ヒョードル
2012年
本名フョードル・ウラジーミロヴィチ・エメリヤーネンコ
(露: Фёдор Влади?мирович Емелья?ненко)
(英: Fedor Vladimirovich Emelianenko)
生年月日 (1976-09-28) 1976年9月28日(47歳)
出身地 ソビエト連邦
ルハンシク州ルビージュネ
通称ロシアン・ラストエンペラー[1]
The Last Emperor[2]
60億分の1の男[1]
人類最強の男[3]
氷の皇帝[4]
居住 ロシア
ベルゴロド州スタールイ・オスコル
国籍 ロシア
身長183 cm (6 ft 0 in) [2]
体重101 kg (223 lb) [2]
階級ヘビー級
リーチ193 cm (76 in)
スタイルサンボ
柔道
スタンスオーソドックス
ロシア
男子コンバットサンボ
世界選手権
銅2008 サンクトペテルブルク100kg超級
金2007 プラハ100kg超級
金2005 プラハ100kg超級
金2002 パナマシティ100kg超級
金2002 テッサロニキ100kg超級
欧州選手権
金1999 イスタンブール100kg超級
ロシア選手権
金2012 モスクワ100kg超級
金2009 クストヴォ100kg超級
金2008 サンクトペテルブルク100kg超級
金2007 ウラン・ウデ100kg超級
金2005 クストヴォ100kg超級
金2002 モスクワ100kg超級
銅2000 オレンブルク100kg超級
柔道
ロシア選手権
銅1999 クストヴォ無差別級
銅1998 クストヴォ100kg未満級
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エメリヤーエンコ・ヒョードル[† 1](露: Фёдор Емельяненко、英: Fedor Emelianenko、1976年9月28日[2] - )は、ロシア[† 2] の男性元総合格闘家、サンビスト、元柔道家。チーム・ヒョードル主宰。元PRIDEヘビー級王者。元WAMMA世界ヘビー級王者。元リングス無差別級王者。元リングスヘビー級王者。 柔道の国際大会で活躍したのち総合格闘技に転向、2000年にリングスの大会で来日、ヘビー級と無差別級の王座に就く。2002年のリングス休止以降はPRIDEに出場し、2003年にアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラを下しヘビー級王座を獲得した。2004年にはヘビー級グランプリに優勝、2005年にはミルコ・クロコップを下し王座を防衛した。2007年のPRIDE消滅後は日本国外の大会に出場、2008年にはAfflictionで元UFCヘビー級王者ティム・シルビアを破りWAMMA世界ヘビー級王者となっている。その後も、2009年にはアンドレイ・アルロフスキーに勝ち、WAMMA王座の防衛に成功。2010年に敗れるまで10年間無敗という記録を作った。 PRIDE王者時代から2010年に敗れるまでは日本だけでなくアメリカなどのメディアからも「総合格闘技界最強」と評価され、多くのメディアのランキングにおいてヘビー級で世界1位にランクインしていた[5]。 2009年にロシア政府認定の投票によりテニスのスベトラーナ・クズネツォワと共にロシアのベスト・アスリートに選ばれている。また、ロシアの長年活躍したトップアスリートだけに送られるスポーツマスターの称号を持ち、プロ格闘家として活動する傍らコンバットサンボの大会にも出場し、世界選手権で4度の優勝を果たしている。 2022年4月、4年間務めたロシア総合格闘技連合MMA 1976年、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国ルハンシク州ルビージュネに生まれた。姉1人、弟2人の4人兄弟であった。2歳の時に家族とともにロシア・ソビエト連邦社会主義共和国ベルゴロド州スタールイ・オスコルに移住し[8]、11歳になってサンボ・柔道を始めた。1991年に高校を卒業、1994年には専門学校を卒業する[8](2008年にベルゴロド州立大学 2000年初頭にニコライ・ピチコフの誘いでヴォルク・ハン率いるリングス・ロシア(現ロシアン・トップチーム)を見学し総合格闘技に興味を持ち、ヒョードルはこのジムで練習を始めた[10]。またリングスのスカウトオーディションに参加し、前田日明からバラチンスキー・スレン[† 3] に次ぐ評価を受け日本大会への出場が決まった[11]。同年5月にはリングスのロシア大会で総合格闘技デビュー。9月5日には日本大会で初来日を果たし高田浩也
概要
来歴
プロデビュー以前
リングス
2001年は4月20日からヘビー級王座決定トーナメントに出場する。1回戦ではケリー・ショールに勝利し[15] 8月11日の決勝大会に進出すると、準決勝ではトーナメント本命と目されていた[16] レナート・ババルに判定勝利し、決勝では対戦相手のボビー・ホフマンが左肩脱臼のため棄権し不戦勝[17] となり、初代リングス世界ヘビー級王者に就いた。その後10月20日には無差別級王座決定トーナメントにも出場、1回戦では柳澤龍志に[18]、準決勝ではリー・ハスデルに勝利し[19]、決勝戦に進出した。リングス最後の興行となった2002年2月15日の決勝戦ではクリストファー・ヘイズマンと対戦、2度のダウンとロープエスケープでポイントアウトに追い込み、リングス2冠を達成した[20]。 リングスが活動停止となると、2002年6月23日のPRIDE.21においてPRIDE初参戦。当時パンクラス無差別級王者だったセーム・シュルトに30cmのリーチ差をものともせず、グラウンドのポジショニングで優位に立って判定勝ち、PRIDEデビューを飾った[21]。同年11月24日のPRIDE.23では、ヒース・ヒーリングをパウンドの連打によるドクターストップでTKO勝利し、ヘビー級王座挑戦権を獲得した[22]。
PRIDE