艦歴
発注:1921年にヴィルヘルムスハーフェンに発注
起工:1921年12月8日
進水:1925年1月7日
就役:1925年10月25日
退役:1945年4月26日
その後:1945年5月3日に自沈
除籍:
前級:ケルン級軽巡洋艦
次級:ケーニヒスベルク級軽巡洋艦
性能諸元
排水量:基準:5,300トン
満載:6,990トン
全長:155.1 m
水線長150.5 m
全幅:14.2 m
吃水:基準:5.15 m
満載:5.93m
機関:海軍型石炭専焼水管缶4基&同重油専焼水管缶6基
+ブラウン・ボベリー式ギヤードタービン2基2軸推進
最大出力:45,900shp
最大速力:29.5ノット(54.6 km/h)
航続性能:18ノット/5,200海里
燃料:石炭:875トン
重油:1,170トン
乗員:483名[注釈 1]
兵装:15cm(45口径)単装速射砲8基
8.8cm(45口径)単装高角砲3基
50cm連装魚雷発射管2基
装甲:舷側:50mm(水線部)
主甲板:20mm(平坦部)40mm(傾斜部)
主砲防盾:20mm
司令塔:100mm(最厚部)
エムデン (Emden) は[注釈 2]、ヴァイマル共和国軍が建造した巡洋艦で、同型艦はない[3]。本艦は、第一次世界大戦後のドイツ(ヴァイマル共和政)で最初に建造された軽巡洋艦であり[注釈 3]、エムデンの名を持つ3隻目の艦である[注釈 4]。 本艦は自国の沿岸警備のために建造された軽巡洋艦である。実際には練習艦として運用され、世界各地を訪問した[9]。基本的な設計はドイツ帝国海軍時代のケルン級軽巡洋艦に採り[注釈 5]、戦訓に基づいた改正が行われた[11][12]。船体の建造には従来のリベット留めではなく、電気溶接を多用して軽量化している[注釈 6]。列強各国の軽巡洋艦と比較して特筆すべき性能はなかったが、世界大戦後のドイツ海軍技術発達の起点となったという意味で、意義深い軍艦である[11]。 本型の船体形状は平甲板型船体となっており、艦首形状は前型のケルン級軽巡と同じクリッパー型艦首を備える[14]。排水量は5,000トン台となり大型化された。 連合国監視委員会の干渉により、本艦の武装には制限が加えられていた[11]。艦の構造を前部から記述すると、全くシア(反り返り)の無い艦首甲板上に主砲の「15.2cm(45口径)速射砲
概要
艦形本艦の模型。
後述する本艦と古鷹型重巡洋艦「加古」との交換見学会が開かれた際、「エムデン」の図面の一部が日本側に提供された。 第一次世界大戦後に成立したヴァイマル共和政において、ヴァイマル共和国軍が建造した軽巡洋艦である。「エムデン」は旧式巡洋艦
艦歴
第二次世界大戦前は主に練習艦として使用され、1926年から1939年の間、大西洋、太平洋、地中海を幾度も航海した。1926年(大正15年)11月中旬にドイツを出発、東回りで遠洋航海が始まる[9]。1927年(昭和2年)5月、フェルスター艦長の指揮下で大日本帝国の各地を訪問した[16][17][注釈 8]。5月24日から30日まで横浜港に滞在する[23]。26日にはエムデン乗組員が横須賀を訪問し[17]、戦艦長門、重巡古鷹、記念艦三笠を見学した[24][注釈 9]。日本側関係者の観察では「三笠ガ最感動ヲ與ヘタリ」であったという[24]。また岡田啓介海軍大臣邸宅で開催されたエムデン乗組員歓迎会に鈴木貫太郎軍令部総長が出席するなど[26]、日本側は様々な歓待をおこなった[17][27]。後日、フェルスター艦長は海軍大将に昇進したあと引退し、ベルリン日本研究所や日独協会の責任者を務めている[28]。
1930年代に高角砲や機銃が増設された。1933年から34年に大規模改装をおこない、4基の石炭専燃缶を重油専燃缶に換装、魚雷装備の強化、マストや煙突の改修をおこなった。また、第二次世界大戦中には15cm砲を45口径砲から48口径C36単装砲へ換装、8.8cm高角砲を10.5cm高角砲へ換装、対空火器を増設するなどの改装が行われた。
1931年(昭和6年)6月下旬、「エムデン」は二度目の訪日をはたし、日本海軍関係者はドイツの造船技術に注目した[注釈 10]。そこで「エムデン」と同時期に完成した古鷹型重巡洋艦「加古」[30][注釈 11]との交換見学会が開かれた[注釈 12]。