エムデン_(軽巡洋艦・初代)
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艦歴
発注:ダンチヒ工廠
起工:1906年11月1日
進水:1908年5月26日
就役:1909年7月10日
退役:1914年11月9日大破座礁
その後:1950年代初頭に解体
除籍:
性能諸元
排水量:常備:3,660トン
満載:4,270トン
全長:118.3m
水線長:117.9m
全幅:13.5m
吃水:5.53m?5.54m
機関:シュルツ・ソーニクロフト海軍型石炭専焼水管缶12基+直立三段膨張式レシプロ機関2基2軸推進
最大出力16,350hp
最大速力:24.0ノット
航続距離:12ノット/3,760海里
乗員:360名
兵装:10.5cm(40口径)単装速射砲10基
5.2cm(55口径)単装速射砲8基、
45cm単装魚雷発射管2基
装甲:甲板:30mm(最厚部)
司令塔:102mm(最厚部)

エムデン(SMS Emden)(初代)は、ドイツ帝国海軍ドレスデン級小型巡洋艦の1隻。艦名はエムス川沿いにあるドイツの都市、エムデンに由来する[1]。1909年に就役し、翌年清国青島を本拠地とする東洋艦隊に配属された。エムデンは優美な船型から「東洋の白鳥」とも呼ばれた[2]第一次世界大戦では主にインド洋方面で通商破壊戦を行い大きな戦果を挙げた。ミューラー艦長の行動は戦時国際法に則った紳士的な振る舞いであり、船舶乗員は丁重に扱われた。エムデンは1914年11月9日にオーストラリア海軍の軽巡洋艦「シドニー」との戦闘で破壊された。

建造費は680,000 マルクに上り、ドイツ海軍にとっては最後のレシプロ機関艦であった。姉妹艦の「ドレスデン」は直結タービンを使用していた。
艦歴

エムデンはプファイル代艦として発注され、1906年4月6日にダンチヒ工廠で契約がなされた[3]。1906年11月1日起工。1908年5月26日に進水し、艦名の由来となったエムデンの市長Leo Furbringerによって命名された[4]。1909年7月10日就役[5]

1910年4月1日、エムデンは清国、膠州湾租借地青島を拠点とする東洋艦隊に配属となった[4]。エムデンは1910年4月12日にアジアへ向けキールを発ち、その途中で南米への親善訪問を行った[4][6]。5月12日にモンテビデオに着き、そこで東アメリカ艦隊に配属された巡洋艦ブレーメンと合流。2隻は5月17日から30日までブエノスアイレスに滞在しドイツ代表としてアルゼンチン独立100周年記念祭に参加した。それから2隻はホーン岬をまわり、エムデンがバルパライソに立ち寄る一方、ブレーメンはそのままペルーへ向かった[4]

良質な石炭の不足のため太平洋横断は遅れた。エムデンはチリ海軍の基地があるタルカワノでどうにか1,400tほど石炭を積むと、6月24日に出航した。途中荒天のためイースター島に立ち寄り、7月12日にタヒチパペーテに停泊。7月22日にドイツ領サモアアピアに到着し、東洋艦隊と合流した。艦隊は10月にサモアを離れ、本拠地である青島へ向かった。10月27日から11月19日までエムデンは長江へ派遣され、漢口も訪れている。日本の長崎を訪問後、毎年の修理のため12月22日に青島に戻った[4]。だが、ポナペ島でソケースの反乱発生のためエムデンが必要となり、修理は実施されなかった。エムデンは12月28日に青島から出航し、香港からの巡洋艦ニュルンベルクと合流した[7][8]

2隻の到着により旧式巡洋艦コルモランなどであったポナペ島のドイツ軍は増強された。1911年中旬、艦艇は叛乱者を砲撃したり、乗組員などからなる上陸部隊を派遣した。2月末までには叛乱は鎮圧され、2月26日に到着した巡洋艦コンドルと交代して他の艦は3月1日に青島へ向け出発。グアム経由で3月19日に到着した。そして、エムデンはようやく修理を行うことができた。1911年中頃、エムデンは日本への航海を行った。その際台風に遭遇し日本船と衝突事故を起こしている。その結果、再びドック入りのために青島へ向かうこととなった。1911年10月10日に辛亥革命が起きると、エムデンは長江へ派遣された[9]


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