エミール・ヤニングス
Emil Jannings
1926年
本名Theodor Friedrich Emil Janenz
生年月日 (1884-07-23) 1884年7月23日
没年月日 (1950-01-02) 1950年1月2日(65歳没)
出生地 スイス ザンクト・ガレン州ロールシャッハ
受賞
アカデミー賞
主演男優賞
1928年『肉体の道』『最後の命令』
ヴェネツィア国際映画祭
男優賞
1937年『支配者』
その他の賞
テンプレートを表示
エミール・ヤニングス(Emil Jannings, 1884年7月23日 - 1950年1月2日)はドイツの俳優。第1回アカデミー賞男優賞受賞。 本名テオドール・フリードリヒ・エミール・ヤネンツ。1884年7月23日、スイスのロールシャッハ (スイス)に中産階級の家に生まれる。父親はアメリカ人、母親はロシア系ドイツ人[1][2]。16歳には家出し船乗りになり、最後は大洋航路の調理人の助手になる。しかし幻滅して家に戻り、すぐに劇団に入る。18歳で彼はプロフェッショナルな舞台デビューを飾り、チューリヒとドレスデン地方の部隊で古典演劇を学ぶ。1906年ドイツ演劇の大御所マックス・ラインハルトに招かれ、ベルリンのドイツ劇場に出演、『ファウスト』のメフィストを演じた。この十年間でドイツの演劇史に残る俳優となる。 1914年には映画界に進むがお決まりの役柄しか回ってこなかったが、1919年には歴史劇や文芸作品で大いに名を挙げ、1920年代中頃には国際的にも知名度が上がり、『ヴァリエテ』(1924年)、『最後の人
来歴
1927年米国のパラマウント映画と契約を結び、ハリウッドに移り、渡米第1作『肉体の道』(1927年)と第2作『最後の命令』(1928年)で初のアカデミー主演男優賞を獲得する。しかし、トーキー映画の急速な波のなか、ドイツ語訛りが強かったヤニングスはアメリカでのキャリアを終えざるを得なかった。
1929年、彼はドイツへ帰る。1930年、ドイツに渡ったハリウッドの新進監督ジョセフ・フォン・スタンバーグの手で『嘆きの天使』が作られた。この作品によってマレーネ・ディートリヒとスタンバーグは、国際的に名をあげ、映画史上に一時代を築く。ヤニングスにとっても、この『嘆きの天使』は、彼の出演作品中最大のヒットとなった。だが、当時すでに評価の定まっていた彼にとっては、単なるヒット作の域を出ず、最後の輝きを放つものとなった。
1933年ナチスが政権を握ると、彼はそのプロパガンダの一翼を担った。ナチスの熱烈な支持者となったのである。この十年間はナチスの政治思想を擁護する作品を作り続けた。ゲッベルス宣伝相は1938年に勲章を贈り、彼の作品を製作する撮影所を与えた。1941年は「帝国の芸術家」として讃えられた。
第二次世界大戦後、ヤニングスは当然連合軍のブラックリストに載り、もう新しく映画は作れなかった。1950年オーストリアで癌により死去[3]。65歳。 公開年邦題
主な出演作品
原題役名備考
1918呪の眼
Die Augen der Mumie Maラドゥ
1919パッション
Madame DuBarryルイ15世
1920白黒姉妹
Kohlhiesels Tochterピーター
アルゴール
Algol - Tragodie der Machtロベルト・ヘルネ
デセプション
Anna Boleynヘンリー8世
1921カラマゾフの兄弟
Die Bruder Karamasoffディミートリイ・カラマゾフ
オリベラの勇将
Der Stier von Oliveraギローム将軍
怪傑ダントン
Dantonダントン
鼠
Die Rattenブルーノ
1922ファラオの恋
Das Weib des Pharaoファラオ
オセロ
Othelloオセロ
ピーター大帝
Peter der Groseピョートル1世
1923愛の悲劇
Tragodie der Liebeオムプラード
黄金狂乱
Alles fur GeldS. I. Rupp
1924裏町の怪老窟
Das WachsfigurenkabinettHarun al Raschid
ニュウ
Nju - Eine unverstandene Frau夫
最後の人
Der Letzte Mannホテルのドアマン
1925クオヴァディス
Quo Vadis?ネロ
ヴァリエテ
Varieteボス
タルテュッフ
Herr Tartuffタルテュッフ
1926恋は盲目
Liebe macht blindエミール・ヤニングス
ファウスト
Faust - Eine deutsche Volkssageメフィスト
1927肉体の道
The Way of All Fleshオーガスト・シリングアカデミー主演男優賞 受賞