エミール・モーリス
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エミール・モーリス
Emil Maurice
親衛隊制服姿のエミール・モーリス
生誕 (1897-01-19) 1897年1月19日
ドイツ帝国
プロイセン王国
シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州(ドイツ語版)ヴェスターモーア(ドイツ語版)
死没 (1972-02-06) 1972年2月6日(75歳没)
ドイツ
バイエルン州ミュンヘン
国籍ドイツ
職業時計工、ボディーガード、運転手、時計屋、軍人
著名な実績ヒトラーの運転手、親衛隊上級大佐ミュンヘン市議会議員、ミュンヘン手工業者会長
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エミール・モーリス(Emil Maurice、1897年1月19日1972年2月6日)は、ナチス・ドイツ政治家軍人アドルフ・ヒトラーの運転手。ユダヤ系ドイツ人の古参ナチ党員で、1935年にヒトラーより名誉アーリア人(Ehrenarier)と宣言された。

国民社会主義ドイツ労働者党(NSDAP、ナチ党)の前身であるドイツ労働者党(DAP)の時代から入党していた古参党員であり、突撃隊の前身である会場警備隊の指揮官を務めていた。ミュンヘン一揆後に投獄されていた際にはルドルフ・ヘスとともにヒトラーの我が闘争の口述筆記を務めた。出獄後ヒトラーの運転手となったが、ヒトラーの姪アンゲラ・ラウバル(ゲリ・ラウバル)と親しい間柄になったことでヒトラーの不興を買い、党を追放された。のちに復帰して親衛隊親衛隊上級大佐(SS-Oberfuhrer)の階級を与えられた。ナチ党員番号は39番、親衛隊の隊員番号は2番であった[1]
経歴

シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州(ドイツ語版)のヴェスターモーア(ドイツ語版)出身[1]。モーリス家はフランス移民の家系である[2]。実科学校(de:Realschule)を卒業した後、時計工として働いていたが、この際に横領罪に問われ、前科が付いている[3]第一次世界大戦中の1917年から1919年にかけてバイエルン王国陸軍に従軍した。

戦後の1919年に国民社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の前身ドイツ労働者党に入党した[1]。1920年に「整理隊」(のちの突撃隊、当時は25名ほど)の指揮官に任じられた[4]。しかし1921年7月29日にアドルフ・ヒトラーが党首に就任すると整理隊は「体育およびスポーツ部(Turn-und Sportabteilung)」と改称されてその指揮権はエアハルト海兵旅団のハンス・ウルリヒ・クリンチュ(ドイツ語版)に移された[5]

1923年にヒトラーの個人警護部隊「アドルフ・ヒトラー特攻隊Stostrupp Adolf Hitler」が設置されると、最初の隊員の一人となった[6]。1923年11月9日のミュンヘン一揆に参加した。一揆の失敗後にヒトラーとともにランツベルク刑務所へ投獄された[1]。刑務所内でヒトラーのもっとも親しい友人の一人になり、ここでヒトラーが著した『我が闘争』の中にも名前が出てくる数少ない人物の一人である[1]。ヒトラーはモーリスのことを「マウリツル」というあだ名で呼び、またヒトラーとモーリスは親しい間柄で使う二人称「きみ(Du)」で呼び合う間柄だった[2]

釈放後の1925年に親衛隊に入隊し[7]、ヒトラーのボディーガード、また運転手を務めた[1]。やがてヒトラーの知らぬところでヒトラーが可愛がっていた姪アンゲラ・ラウバル(愛称ゲリ)と親密な関係になった。1927年のクリスマス直前にモーリスはゲリにプロポーズし、ゲリも承諾した[8]。ヒトラーは日ごろから若い党員たちに結婚を奨励しており、モーリスの結婚も心待ちにしていたので、モーリスに「お前が結婚したら毎日お前たちの所に食事に行くからな」などと冗談を飛ばしていた[8]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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