エミール・シオラン
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エミール・シオランルーマニアでのシオラン(1947年以前)
別名E・M・シオラン、シオラン
生誕 (1911-04-08) 1911年4月8日
オーストリア=ハンガリー帝国・セベン県レシナール
(現:  ルーマニアシビウ県ラシナリ)
死没 (1995-06-20) 1995年6月20日(84歳没)
フランスパリ
時代20世紀の哲学
地域西洋哲学
学派大陸哲学
悲観主義
実存主義
反出生主義
研究分野自殺ニヒリズム倫理学文学
影響を受けた人物

イマヌエル・カントアルトゥル・ショーペンハウアーセーレン・キェルケゴールフリードリヒ・ニーチェジョゼフ・ド・メーストルマルティン・ハイデッガールートヴィヒ・クラーゲスゲオルク・ジンメルオスヴァルト・シュペングラー、ナエ・イオネスク、レフ・シェストフ

影響を与えた人物

トーマス・リゴッティニック・ランドフェルナンド・サバテール

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エミール・ミハイ・シオラン(Emil Mihai Cioran、1911年4月8日 - 1995年6月20日)は、ルーマニア作家思想家。若年期のエクスタシー経験と、メランコリー不眠など、生涯にわたる精神的苦悩をもとに特異なニヒリズム的思索を展開した。姓のルーマニア語読みはチョラン。
来歴

オーストリア=ハンガリー帝国トランシルバニア地方、セベン県レシナール(のちのルーマニアシビウ県ラシナリ(シビウの南方))に、ルーマニア人家庭の息子として生まれる。父エミリアンはルーマニア正教司祭、母エルヴィラ(旧姓コマニチ)は男爵位を持つ地方貴族の出身[1]。姉ヴィルジニア、弟アウレルを持つ三人姉弟の長男だった[1]。姓の読みはルーマニア語ではチョラン。シオランは、シビウブカレストベルリンなどに住み、パリで歿した。

エミール少年は故郷で幸福な少年時代を過ごした。「私の少年時代よりも幸福な少年時代の事例にひとつとしてお目にかかったことがない」と後年自ら述べている[2]。彼は「義務も宿題もなく野山を自由に遊び回り」[2]ながら日々を送った。第一次世界大戦中は、両親がハンガリー当局によってハンガリーの他の街(父はショプロン、母はコロジュヴァール(クルジュ=ナポカ)に強制的に収容されていたので[3]、その間シオランは両親不在のまま祖母や姉弟とともに故郷で自由に過ごした[4]。「空と大地は文字どおり私のものだったし、心配事でさえ喜ばしいものだった。私は――万物の「主」として目を覚まし、床に就いたものだった。自分が幸せであることは知っていたが、それがやがて失われることも予感していた」[5]

1921年、10歳になったシオランは、リセ(ギョルゲ・ラザル校)に通うためにすぐ近くの街シビウに転居する[6]。この故郷との離別を彼は「楽園は終わってしまった」と表現している[7]。第一次世界大戦の結果1918年以来ルーマニア領となっていたシビウでは、トランシルヴァニア・ザクセン人の住居に下宿し、ドイツ語を習得した[8]1924年、父エミリアンがシビウの長司祭に任命されると、家族とともにシビウに住んだ[9]。シビウのルーマニア語図書館とドイツ語図書館に通い、哲学や文学の読書に熱中した[10]

1928年、ブカレスト大学の文学部に入学する[11]。読書への熱中は続き、「いままで考えられてきたあらゆることを知る」、「すべての観念を知り、すべての本を読む」という熱狂に取りつかれていた[12]。ただし、ブカレストでの最初の年は若きシオランにとって簡単ではなかった。彼は地方出身で、友人もおらず、孤独に過ごした[13]。ドイツ文化が色濃く、あこがれの首都といえばウィーンだったトランシルヴァニア出身の若者にとって[14]、フランス文化の威信が強い首都ブカレストは異質だった。その例の一つとして、当時のシオランはフランス語があまり喋れなかったが、ブカレストの知識人や学生は流暢にフランス語を身につけていて、劣等コンプレックスを抱いたという[15]。そのこともあってか、彼は大学の講義にほとんど出席せず、隠れるように図書館に通い、一日の大半をそこで過ごした[16]

ブカレスト大学に学び、そこで1932年ウジェーヌ・イヨネスコミルチャ・エリアーデと出会い、終生の友人となる。また、彼はルーマニアの「著作を持たない」思想家ペトレ・ツツェアとも長きにわたり親交を深めた。1934年、処女作『絶望のきわみで』が出版される。イヨネスコの『否(Nu)』とともにカロル2世王立財団出版から出版されたこの著作は好意的に迎えられ、委員会から賞も授与され知識人としてのデビューを飾った。

彼はメンバーにこそならなかったが、ルーマニアファシズム運動である鉄衛団にも関わり、その機関誌に多くの政治論文を寄せている。シオランは鉄衛団の暴力的手法には賛同してはいなかったとされるものの第二次世界大戦の初期まで支持していた。彼は後に、この運動に対する共感と民族主義、反ユダヤ主義を捨て去り、それに傾倒した若年期の態度に対して、しばしば後悔、良心の呵責の念を表した。

批評家の中には、戦間期のルーマニアの民族主義運動への政治思想的参加に対する彼の自責の念が後の作品を特徴付ける悲観主義の源となったと見る者もいる。また、その悲観主義は彼の幼年期の出来事に遡っていると見る者もいる。1935年頃に、彼がそんなに不幸になるのだと「もし知っていたら、堕胎していたのに」と母親に言われたと伝えられている。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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