エミリー・ブロンテ
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兄のブランウェルが描いたブロンテ姉妹の肖像画の中のエミリー・ブロンテ.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ポータル 文学英語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。エミリー・ブロンテの著作

エミリー・ジェーン・ブロンテ(Emily Jane Bronte、1818年7月30日 - 1848年12月19日)は、イギリス小説家ヨークシャーソーントンに牧師パトリック・ブロンテの子として生まれた。ブロンテ三姉妹の一人として知られる(実際は兄ブランウェルも著作[1]がある)。エリス・ベルのペンネームで、唯一の長編小説『嵐が丘』(1847年)を出版した。この作品は当初酷評されたが、没後に評価が高まった。
生涯

1818年7月30日、イギリスのヨークシャーソーントンの牧師館に、牧師パトリック・ブロンテ[2]とマリア・ブランウェルの間に、マリア、エリザベス、シャーロット、ブランウェル(英語版)に続く第五子、四女として生まれた。1820年に妹のアンが生まれている。

1820年、一家はハワースに移り住み、翌年母マリアが病没。1824年、姉3人がランカシャーのカウアン・ブリッジ校に入ったため、11月の終わりにエミリーもここに入学した。だがこの学校は低地にあり非常に不衛生で、マリアは翌年5月、肺結核で死亡し、さらに1ヶ月後の6月にはエリザベスもやはり肺結核で後を追うように亡くなる。長女と次女が十歳余で死亡し、エミリーは事実上次女となった。二人の死を受け、シャーロットとエミリーは急遽帰宅することになる。牧師館では家事を任され、一つ年下のアンと協力した。

1826年に父がブランウェルに、所用で出かけたリーズの土産に兵隊などの1ダースのおもちゃを贈り、子供たちは「もの書きゲーム」をして遊ぶようになり、「若者たち」「島の人々」という空想世界(パラコズム(英語版))を作り、これがブロンテきょうだいのシェアード・ワールドのファンタジー世界「グラス・タウン(英語版)」へと発展した[3]ゴンダルの詩が書かれたエミリーの原稿

1831年よりシャーロットがロウ・ヘッド校で学ぶようになり、エミリーとアンは、シャーロットが帰る度に教えを受けた。

シャーロットが家から出たことで、きょうだいの空想世界は、シャーロットとブラウンウェルの「アングリア」と、エミリーとアンの「ゴンダル(英語版)」に分裂した(エミリー13歳)[3]。それまできょうだいの遊びのリーダーはシャーロットで、エミリーは姉の影響下を逃れたゴンダルで、自由に自分の世界を展開することができ、主導的に創作活動を進め、想像力に磨きをかけた[3]。ゴンダルは詩と散文から成る物語世界で、二つの島を舞台に、恋愛と戦争の物語を描いた[3]。1836年、17歳で詩を書き始めたと考えられている[3]

シャーロットが私塾で教師に採用され、エミリーは17歳でそこの生徒となるが、3か月後、アンと入れ替わりにハワースへ帰った。

ブロンテ家にはさほど貯えもなく、きょうだいは自分の生活費を稼ぐ必要があった[4]。当時、知的女性が就ける職業は限られ、教師やガヴァネス(家庭教師)くらいであったが、ガヴァネスの仕事は過酷で、召使い同然の扱いを受けるのが普通であり、きょうだいは四人ともガヴァネスとして辛酸を舐めている[4]。1838年、ハリファクス近郊のローヒルで教師を勤めるが、長時間労働に苦しみ半年でやめる。私塾を開くことを計画し、1842年には、姉のシャーロットと共にベルギーブリュッセルのエジェ寄宿学校へ留学、半年後シャーロットを残して帰国する。1844年、姉が帰国すると私塾を開こうとしたが、片田舎で生徒が集まらず、失敗に終わった。

その秋に、シャーロットはエミリーの詩稿を発見し、「普通、女性が書く詩とはまったく違っているという深い確信」を持ち、自分とエミリー、アンで詩集を出版しないかと持ち掛けた[4]


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