エミリー・エリザベス・ディキンソン(Emily Elizabeth Dickinson、1830年12月10日 - 1886年5月15日。エミリ・ディキンスンとも)は、アメリカの詩人である。 ディキンソンは、アメリカ合衆国マサチューセッツ州アマーストで、アマースト大学の財務に携わる法律家の家に生まれ[3]。厳格なピューリタンの父のもとで、質素厳格に育てられた[4][5]。ディキンソン家はアマースト大学の有力者を複数輩出した名家で、一家は自分たちは特別だという強い意識があり、つながりの強い家族中心主義の家だった[3]。ディキンソンは、第二次大覚醒と呼ばれるキリスト教プロテスタントの復興ムーブメントの時期に育った[6]。 1840年から1847年まで、中等教育機関のアマースト・アカデミーで学び[7]、この頃スーザン・ギルバートと友人になる[8]。10代から並外れた言語に関する才能を示しており、人間と自然が好きな、活発で知的好奇心に満ちた文学少女だった[9][10]。感受性が豊かで、感情の起伏が激しく、強い自意識を持っていた[11][6]。公的な誇示を避けようとする傾向、人見知りをするという面もあり、時としてそれが対人恐怖にまで及ぶようなところもあった[12][11]。 アマースト・アカデミーの後、ピューリタンのマウント・ホリヨーク女学院に入学して寮生活を送った。マウント・ホリヨーク女学院在籍時に、父の元で法律を学んでいたユニテリアンのベンジャミン・フランクリン・ニュートンと出会って私淑し、ニュートンから超絶主義のラルフ・ウォルド・エマーソンの著作を紹介され愛読するようになり、ユニテリアン思想とエマーソンに強い影響を受ける[4][13]。当時は、伝統的な信仰、特に制度としてのキリスト教が「救い」の源泉でなくなりつつあった時代で、ディキンソンは人間の存在にまつわる「哲学的・存在論的」な問題に直面することになり、思索を深めていった[11]。 マウント・ホリヨーク女学院では、生徒に繰り返し堅信(信仰告白)を求める学校のやり方に疑問を持ち、堅信拒否を貫いて苦しみ、ホームシックもあり、1年で退学して家に戻った[4][14]。ここでの苦い経験以降、ピューリタンの伝統と距離を取り、エマーソンの超絶主義の影響のもとで詩作を始めた[15]。親友のスーザンはディキンソンの兄と結婚して、隣家に住んでおり、彼女はディキンソンの詩のほとんど唯一の読者で、重要な批評家だった[16]。ディキンソンは妹とともに家事と病気の母の介護に勤しみながら、人生の大部分を屋敷で過ごし、生涯独身だった。1860年代初めに、説明しがたい何らかの危機、ロマンチックな、もしくは病理的、心理的、精神的な危機に苦しみ、作詩に専念するために屋敷に引きこもるようになったと考えられているが、理由は推測の域を出ない[17][12]。教会にも全く行かなくなり[18]、1860年代前半に社会との直接的な関わりから身を引いた[19][20]。同時にあふれるように詩作が盛んになり[17]、生涯で最も活発に詩作を行った[19][20]。一見隠遁のような暮らしだったが、詩作に励み、友人や知人、従姉妹たちと頻繁に手紙のやり取りをしていた[9]。生涯で、数回短期間他の町に滞在したことを除いて、アマーストの町で生涯を過ごした[12]。 ディキンソンの恋については、様々な候補が挙げられており[21]、「マスターレター」と呼ばれる、投函されていない恋文が知られている[22]。スーザンやほかの女性との同性愛関係を主張する学者もいる[23][24]。唯一確かなのが晩年の恋で、相手は18歳年上の裁判官で父の親友だったオーティス・フィリップス・ロードである[21][25]。1870年後半にロードと恋仲になり、二人は結婚を考えていたと推定されている[25]。1882年にロードが倒れ、1884年に死去したため、結婚することはなかった[26][25][27]。
概要