エマニュエル・ピロ
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エマニュエル・ピロ
Emanuele Pirro
エマニュエル・ピロ (2012年)
基本情報
国籍 イタリア
生年月日 (1962-01-12) 1962年1月12日(62歳)
出身地 イタリア
同・ローマ

基本情報
F1での経歴
活動時期1989,1990-1991
所属チーム'89 ベネトン
'90-'91 スクーデリア・イタリア
出走回数40 (37スタート)
タイトル0
優勝回数0
表彰台(3位以内)回数0
通算獲得ポイント3
ポールポジション0
ファステストラップ0
初戦1989年フランスGP
最終戦1991年オーストラリアGP
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ル・マン24時間での経歴
年1981,1998-2008,2010
チームマルティーニ・レーシング
GTC・コンペティション
アウディ・スポーツ・ヨースト
チャンピオン・レーシング
ドレイソン・レーシング
最高位1位 (2000,2001,2002,2006,2007)
クラス優勝6 (2000,2001,2002,2003,2006,2007)

エマニュエル・ピロ(Emanuele Pirro, 1962年1月12日 - )は、イタリア出身のレーシングドライバー。イタリア語に最も近い表記はエマヌエーレ・ピッロ。5度のル・マン24時間レース優勝経験を持つ。
プロフィール
キャリア初期

11歳の時、レーシングカートでレースキャリアを開始。1977年にイタリア・カートレースでチャンピオンとなった。1980年にイタリアFフィアット・アバルトに転向し、初年度でチャンピオンを獲得した。

1981年ヨーロッパF3へステップアップ、F3初年度に1勝を記録しランキング6位。以後1983年までの3年間の参戦で計6勝・4PP・3FLを記録。2年目の1982年のランキング2位が最高となった。
F2 / F3000

1984年、ヨーロッパF2選手権にステップアップし、オニクス・レーシングのマーチ・BMWをドライブ。第10戦ドニントン・パークでF2初表彰台となる2位を獲得するなどランキング6位。

1985年、F2からF3000レギュレーションに変更となった国際F3000選手権にオニクスから継続参戦し、2勝を挙げランキング3位。1986年も同シリーズでランキング3位を獲得し、F2/F3000クラスではトップクラスであることを証明する。翌1987年のF1シート獲得を希望し、2シーズン前までF1に参戦していたRAMの創設者でありマネージャーのジョン・マクドナルドとコンタクトを取った。

世界ツーリングカー選手権にも1986年・1987年にBMW ETC M3のドライバーとして参戦しており、計3勝を挙げた。
F1予備軍

1987年、前2年の国際F3000での実績からF1参戦を目指しており、前述のジョン・マクドナルドが新たにマネージャーとして指揮するミドルブリッジ・レーシングのF1参戦計画のドライバーとしてピロと契約。ピロはこの交渉の時マクドナルドに「自分はツーリングカーでBMWと良好な関係を築いているから、自分と契約してくれればF1用のターボエンジンをBMWが供給してくれる」とアピールし実ったものだった。マシンは1年型落ちとなるベネトン・B186で、第11戦イタリアグランプリからの4戦に出場することが決まり[1]コンコルド協定で全チームの承認サインもなされていたが、第10戦オーストリアGPでスタート直後に多重クラッシュが連続発生し2度スタートがやり直しになったことを理由に、参戦を承認していたFISAが土壇場で「スタート台数を増やすのは妥当ではない」とミドルブリッジ・ベネトンおよびピロのF1参戦を認めない方針に変更してしまった[2]。同年のピロはこのミドルブリッジF1計画に注力していたため、レース活動の機会を失ってしまった。

1988年より、F1のマクラーレン・ホンダからテストドライバーの要請を受け、以後3年間マクラーレンの現行マシンでホンダF1エンジンのテスト走行・マシン開発に従事。加えて同年より全日本F3000チーム・ルマンからレギュラー参戦、ランキング3位を獲得する。

1989年も全日本F3000と富士GCに継続参戦していたが、ピロはブラバムなどF1チームとも交渉を続けており、ラルースのファクトリーでシート合わせを済ますなど、最終段階まで進展した交渉もあった[注釈 1]

そんな中、ベネトンで足の負傷の悪化とチーム上層部の権力争いの果てチームを追われたジョニー・ハーバートの後任としてF1第7戦フランスGPでのF1デビューのオファーが届き、日本での最後のF3000レースとなった1989年第4戦鈴鹿では、優勝を飾った。

ホンダF1エンジンのテストチームでのピロを知る後藤治は、「常に落ち着いている印象で、雰囲気は中嶋選手に近い感じですね。あらゆる状況で均一した判断が出来る有能なドライバーです」と評している。急遽F1デビューが決まり、以後の予定されていたテストに参加できないと報告するため、後藤に電話をかけ謝って来たというピロに後藤は「F1デビューは素晴らしいことだから気にしないで頑張って」とエールを送ったという。マスコミ対応で後藤は「ホンダとしては(86年にホンダF1エンジンテストを担当した)中嶋選手とピロの二人をF1に送りだせたのですから、すごいことだと思ってますし喜びもあります」と述べた[3]
F1F1参戦時のピロ(写真は1989年ベルギーGP

1989年シーズン、ベネトンはアレッサンドロ・ナニーニと新人ハーバートのコンビでシーズン開幕を迎えたが、前年国際F3000で負った足の傷の癒えぬハーバートの成績が安定せず、休養させる案が浮上。その後任としてミケーレ・アルボレート[4]ケケ・ロズベルグ[5]と交渉したが折り合わず、ホンダF1テストドライバーとして走行実績を持ち、マクラーレンのマシンをよく知るピロが抜擢されベネトンのレギュラーシートを得た。

しかしナニーニに対しタイムで遅れを取り、予選では1勝9敗。決勝でもナニーニがF1初優勝を含め4度(ピロと組んだ後に限れば3度)表彰台に立ったのに対し、ピロの入賞は豪雨となった最終戦オーストラリアGPでの5位のみという成績に終わった。ドイツGPホッケンハイムリンクではストレートエンドでマシンコントロールを失い、高速でスチロール製クラッシュパッドにぶつかり、マシンから自力で脱出できずにレスキューされる様子が全てTV中継され容態が心配される一幕もあった[6]。結果的には6戦のみの参戦であるハーバートに対しても、ポイント・最高位ともに下回り、シーズンが終わる前にチームは来季のナニーニ残留とネルソン・ピケ獲得を発表したため、ピロのベネトン離脱も決まった。

1990年BMSスクーデリア・イタリアに移籍、アンドレア・デ・チェザリスとのイタリアンコンビとなった。ピロは開幕戦前に体調を悪化させるとウイルス性肝炎と診断され、開幕2戦を欠場し[7]、第3戦サンマリノGPから参戦するもBMS190は完走が出来ないマシンでリタイヤが多く、14レース中完走は3回、最高位10位という成績でノーポイントに終わった。デ・チェザリスの最高位も10位でポイント獲得できなかった。チームは年間のべ23度のリタイアという不振の年となった。スクーデリア・イタリア時代のピロ(写真は1991年アメリカGP

1991年はスクーデリア・イタリアに残留。デ・チェザリスが去った後任としてJ.J.レートがチームメイトに加入。このシーズンに向けてチームはジャッドV10エンジンを獲得し、前年のDFRエンジンよりもパワーアップしたマシンであった。前年の不振のためチームは開幕時に予備予選組に降格していたが、レートが第3戦サンマリノGPで3位表彰台に立ち、ピロも第4戦モナコGPで6位に入賞。ダラーラ製のBMS191は前年の発展型ではなく全く新しく設計されたマシンであり、レートは予備予選など問題にしなかった。しかしピロはシーズン前半に3度の予備予選落ちを喫しており、決勝レースでの完走はピロの方が多かったが、同年をもってチームはピロとの契約を延長せずにピエルルイジ・マルティニと契約。そのためシーズンオフにティレルと交渉するも契約に至らず[8]、F1シートを失うこととなった。
F1後、ル・マンでの活躍アウディ・R10 TDIを駆るピロ
(写真は2006年ラグナ・セカにて)

F1のシート確保が危うくなっていた1991年秋、日本GPの翌週開催された全日本F3000第10戦富士とSWC最終戦オートポリスが同日開催となっていたため日本に残り、ハヤシレーシングから全日本F3000に参戦していたジェフ・リースがSWC参戦のため欠場する代役として全日本F3000へ復帰参戦した[9]

その後はスポーツカー・レースに転向。1994年・1995年にはイタリア・ツーリングカー選手権、1996年はドイツのSTWカップでチャンピオンを獲得するなどの成績を残す。

特にル・マン24時間レースにおいては1999年からアウディを駆り参戦。2000年?2002年、2006年・2007年と5度に渡り優勝を経験し成功を収めた。

FIAよりF1のレーススチュワードに任命され、2010年アブダビグランプリ[10]2011年マレーシアグランプリ、2013年韓国グランプリなどで任務に就いている[11]

2023年4月、古巣のマクラーレンに加入し、同チームのドライバー育成プログラムの責任者に就任した[12]。しかし1年後の2024年4月にはマクラーレンを離脱している[13]
レース戦績
ル・マン24時間レース

年チームコ・ドライバー車両クラス周回数総合
順位クラス
順位
1981年 マルティーニ・レーシング ベッペ・ガビアーニランチア・ベータ・モンテカルロGr.547DNFDNF
1998年 ガルフ・チーム・ダビドフ
GTC・コンペティション Dr. トーマス・ブシャー
リナルド・カペッロマクラーレン・F1 GTR-BMWGT1228DNFDNF
1999年 アウディ・スポーツ・チーム・ヨースト フランク・ビエラ
ディディエ・ゼイスアウディ・R8RLMP3603位2位
2000年 トム・クリステンセン
フランク・ビエラアウディ・R8LMP9003681位1位


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