エフスティグネイ・フォミーン
[Wikipedia|▼Menu]

エフスティグネイ・イパトヴィチ・フォミーン
Евстигней Ипатьевич Фомин
1780年代の肖像画(モスクワ、オスタンキノ宮殿(英語版)美術館所蔵)
基本情報
生誕1761年8月5日
出身地 ロシア帝国
死没1800年4月16日
ジャンル古典派
職業作曲家

ポータル クラシック音楽

エフスティグネイ・イパトヴィチ・フォミーン(: Евстигней Ипатьевич Фомин, ラテン文字表記例: Evstignei Ipatvich Fomin, 1761年8月5日ユリウス暦8月16日) - 1800年4月16日(ユリウス暦4月27日))は、18世紀後半の帝政ロシア作曲家

18世紀末から19世紀初頭にかけては、ロシア・オペラの草創期といえる時期に当たり、ロシアではイタリアフランスの有名作曲家の作品と並んで、ヴァシーリー・パシケーヴィチ(1742年 - 1797年)、ミハイル・ソコロフスキー(生没年不詳)、アレクセイ・ティトーフ(1769年 - 1827年)、ステパン・ダヴィドフ(1777年 - 1825年)らロシアの作曲家によるオペラやバレエ作品が上演された[1]。この中でフォミーンは、短く不遇とされる生涯にもかかわらず、18世紀のロシア・オペラ作曲家としてもっとも傑出した存在と見なされている[2][3]
目次

1 経歴

2 作品

3 関連項目

4 脚注

5 参考文献

経歴

サンクトペテルブルク生まれ。父親は砲兵だったが、フォミーンが6歳のときに亡くなり、サンクトペテルブルク芸術アカデミーの幼年学級に入って歌とクラヴィコードを学ぶ。アカデミー本科に進み、ドイツ人作曲家ヘルマン・ラウパッハ(英語版)らに師事する[4]。1782年にアカデミーを修了し、その才能を認められたフォミーンは音楽留学生としてイタリアボローニャに派遣された。ロシアからの音楽留学生としては、マクシム・ベレゾフスキー(1745年? - 1777年)、ドミトリー・ボルトニャンスキー(1751年 - 1825年)らに次ぐ4人目である[5][6][3]。ボローニャでは3年間の研修を経て「作曲家マエストロ」の称号を与えられ、1785年に帰国する[3]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:28 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef