エフィム・プチャーチン
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エフィーミー(エフィーム)・ヴァシーリエヴィチ・プチャーチン
Евфимий(Ефим) Васильевич Путятин

生誕1803年11月8日
ロシア帝国 サンクトペテルブルク
死没 (1883-10-16) 1883年10月16日(79歳没)
フランス共和国 パリ
所属組織 ロシア帝国海軍
軍歴1822年 - 1861年
最終階級元帥
除隊後教育大臣
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エフィーミー(エフィーム)・ヴァシーリエヴィチ・プチャーチン(ロシア語: Евфимий(Ефим) Васильевич Путятин, ラテン文字転写: Jevfimij Vasil'jevich Putjatin、1803年11月8日グレゴリオ暦11月20日) - 1883年10月16日(グレゴリオ暦10月28日))は、ロシア帝国ロマノフ朝)の海軍軍人、政治家教育大臣(在任期間:1861年6月26日 ? 1861年12月25日)。

1853年に日本の長崎に来航[1]。その後1855年には、日本と日露和親条約を締結するなど、ロシア帝国極東における外交で活躍した。
経歴
海軍軍人

サンクトペテルブルク出身。先祖の出自はノヴゴロド貴族の家系である。1822年に海軍士官学校を卒業し、ミハイル・ラザレフ(英語版)の指揮下で3年間世界周航に従事した。ギリシャ独立戦争ではナヴァリノの海戦に従軍して軍功を挙げ、四等聖ウラジーミル勲章(英語版)を授与された。1828年から1832年にかけて地中海バルト海で軍務に従事し、四等聖ゲオルギー勲章(英語版)を授与された。コーカサス戦争にも従軍して負傷するが、多くの作戦で武功を挙げ大佐に昇進した。戦後の1841年には、黒海艦隊の艦船購入のためにイギリスに交渉に赴いている。

1842年ロシア皇帝ニコライ1世から、カスピ海を活用したペルシアとの通商強化の実現のため、ペルシアに派遣される。プチャーチンはアストラハンに拠点を置きトルクメン人海賊を討伐し、ガージャール朝ペルシア第3代シャーのモハンマド・シャーに謁見して交易権・漁業権の獲得やヴォルガ川の航行権などを認めさせた。この功績により、同年に少将に昇進している。
日露和親条約の締結.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}}フリゲート・パルラダ号プチャーチン来航を描いた瓦版パルラダ号(1854年)、アスコルド号(Askold、1857年)の艦長を務めた海軍軍人イワン・ウンコフスキー(en:Ivan Unkovsky)。

1842年、イギリスがアヘン戦争の結果、との間に南京条約を結んだ事を受け、プチャーチンは、ロシアも極東地域において影響力を強化する必要を感じ、皇帝ニコライ1世に極東派遣を献言、1843年に清及び日本との交渉担当を命じられた。しかし、トルコ方面への進出が優先され、プチャーチンの極東派遣は実現しなかった。1845年にイギリス海軍高級将校エドワード・ノウルズ(Edward Knowles)の遺娘メアリー・ノウルズ(Mary Knowles)と結婚し[2]3男3女をもうけた。1849年に侍従武官に任命され、1851年には侍従武官長に任命されている。

1852年、海軍中将に昇進し、同時にアメリカ合衆国マシュー・ペリー日本との条約締結のため出航したことを知ったコンスタンチン大公から日本との条約締結のために遣日全権使節に任じられ、皇帝ニコライ1世により平和的に交渉することを命令された。

1852年9月、ペテルブルクを出発しイギリスに渡りボストーク号を購入。11月、クロンシュタットを出港した旗艦パルラダ号(Pallada)がイギリスのポーツマス港に到着、修理を行った後、ボストーク号を従えてポーツマスを出港した。喜望峰を周り、セイロン、フィリピンを経由、父島でオリーブツァ号(Olivutsa)、メンシコフ公爵号(Knyaz Menshikov)と合流した。ペリーと違い、シーボルトの進言にしたがって、あくまで紳士的な態度を日本に見せるため日本の対外国窓口である長崎に向かった(プチャーチンに日本遠征を勧めたのもシーボルトである)。

1853年8月22日(嘉永6年7月18日)、ペリーに遅れること1ヵ月半後に、旗艦パルラダ号以下4隻の艦隊を率いて長崎に来航した。長崎奉行の大沢安宅に国書を渡し、江戸から幕府の全権が到着するのを待ったが、クリミア戦争に参戦したイギリス軍が極東のロシア軍を攻撃するため艦隊を差し向けたという情報を得たため、11月23日、長崎を離れ一旦上海に向かった。

上海で情報を収集するなどした後、1854年1月3日(嘉永6年12月5日)に再び長崎に戻り、幕府全権の川路聖謨筒井政憲と計6回に渡り会談した。交渉はまとまらなかったが、将来日本が他国と通商条約を締結した場合にはロシアにも同一の条件の待遇を与える事などで合意した。2月5日(嘉永7年1月8日)、一定の成果を得たプチャーチンは、4月9日にパルラダ号を旗艦とする3隻の艦隊を率いて朝鮮の巨文島に上陸し、同月19日まで滞在し、哲宗に宛てて開港を要請するニコライ1世の親書を送った。プチャーチンの秘書として航海に随行したイワン・ゴンチャロフが、この時の模様を巡航記に『戦艦パルラダ号』(Frigate "Pallada" 1858年、全2巻)に書き残しており、当時の巨文島の生活を伺うことのできる資料となっている[3]。さらに迎日湾を北上し、5月には咸鏡道永興府に到達し、元山港をラザレフ港と命名した。

その後はマニラへ向かい、船の修理や補給を行ったが、旗艦パルラダ号は木造の老朽艦であったため、9月にロシア沿海州のインペラトール湾において、本国から回航して来たディアナ号に乗り換えた。

旗艦以外の3隻の船は、イギリス艦隊との戦闘に備えるため沿海州に残る事となり、プチャーチンはディアナ号単艦で再び日本に向かい、10月21日(嘉永7年8月30日)、箱館に入港したが、同地での交渉を拒否されたため大阪へ向かった。翌月に天保山沖に到着、大阪奉行から下田へ回航するよう要請を受けて、12月3日(嘉永7年10月14日)に下田に入港した。報告を受けた幕府では再び川路聖謨、筒井政憲らを下田へ派遣、プチャーチンとの交渉を行わせた。

しかし、交渉開始直後の1854年12月23日(嘉永7年11月4日)、安政東海地震が発生し下田一帯も大きな被害を受け、ディアナ号も津波により大破し、乗組員にも死傷者が出たため、交渉は中断せざるを得なかった。津波の混乱の中、プチャーチン一行は、波にさらわれた日本人数名を救助し、船医が看護している。この事は幕府関係者らにも好印象を与えた。プチャーチンを描いた瓦版

プチャーチンは艦の修理を幕府に要請、交渉の結果、伊豆の戸田村(へだむら、現沼津市)がその修理地と決定し、ディアナ号は応急修理をすると戸田港へ向かった。しかしその途中、1855年1月15日(安政元年11月27日)、宮島村(現富士市)付近で強い風波により浸水し航行不能となった。


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