市章
位置
座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯41度19分00秒 東経19度27分00秒 / 北緯41.31667度 東経19.45000度 / 41.31667; 19.45000
ドゥラス(アルバニア語: Durres [?dur?s](不定形)、Durresi(定形) ドゥルスィ、イタリア語: Durazzo ドゥラッツォ)は、アルバニア第2の都市。ドゥラス州の州都、ドゥラス県の県都。 アドリア海に面するアルバニア屈指の港湾都市。イタリア、ギリシャ、モンテネグロなどとの交易が行われる。鉄道路線を通じて内陸とも結ばれており、工業製品などの集散地としての役割を果たしている。近隣の都市として約36キロメートル東のティラナ(首都)、35キロメートル北東のクルヤなどが挙げられる。 市は、紀元前627年コリントスとケルキラ出身の古代ギリシャ人によってエピダムノス(Epidamnos)として建設された[1]。周囲には岩でできた天然港があり、内陸は湿地で海側は高い崖であるという地理条件が有利であった。陸海両方から、敵が攻め落とすのが難しい都市となるからである。エピダムノスは政治的に進んだ社会となったことが知られ、古代の哲学者アリストテレスはその政治システムを讃え鼓舞していた。しかし、コリントスとケルキラがエピダムノスを巡って不和となり、ケルキラがアテナイに援軍を要請して迎え撃ったことから、紀元前431年にペロポネソス戦争勃発に荷担した。 エピダムノスはイリュリア王グラウキアス 紀元前49年からのローマ内戦では、デュッラキウム近郊で重要な戦闘が行われた。グナエウス・ポンペイウスら元老院派の兵站基地であったドゥラキウムをガイウス・ユリウス・カエサルを中心とするカエサル派が包囲したものの、ポンペイウスの巧みな用兵によってカエサル軍は一敗地に塗れることとなった。(デュッラキウムの戦い) ローマ支配の元でデュッラキウムは繁栄した。市はテッサロニキとコンスタンティノープルとを結ぶ、イグナティア街道の西の終わりとなった。別のより小さな道は南の都市ブスロトゥム(Buthrotum、現在のブトリント)へ向けて伸びていた。ローマ皇帝アウグストゥスは、アクティウムの海戦にともない自分のローマ軍団の古参兵のためにデュッラキウムを自由都市とした。
概要
歴史
ローマとビザンティン
バルカン半島の残りと同様、ディラキウムと周囲のディラキエンシス・プロヴィンシアエは、民族移動時代に異民族の相当な侵入を受けた。481年には東ゴート王国の王テオドリックに市を包囲され、その後数百年間ブルガリア人の頻繁な攻撃を防いだ。ローマ帝国が衰退すると、市は東ローマ帝国のものになり、引き続き重要港であり続け、帝国と西欧とを結ぶ主要な地であった。かつての市壁 10世紀初頭、シメオン大帝支配下の第一次ブルガリア帝国がディラキウムを陥落させ、今日のアルバニア領のほとんど全てを掌握した。しかし、ペタル1世
中世
ディラキウムは、1082年に東ローマ皇帝アレクシオス1世コムネノスの手から失われた。彼はノルマン人(ロベール・ギスカールと息子のボエモン1世)に打ち負かされたのである(デュッラキウムの戦い (1081年))。東ローマは、ボエモンが1107年に敗退すると再びディラキウムを取り戻すが、1185年にシチリア王国ノルマン朝のグリエルモ2世が占領した。1202年、第四次十字軍の最中には、市はヴェネツィア共和国の支配下へ移された。シチリア王マンフレーディが短期間治めた後、1268年にはアンジュー家のシチリア王シャルル(イタリア名カルロ1世ダンジョ)の手に渡った。
5年後の1273年頃、ディラキウムは大地震に見舞われたがすぐに復興し、カルロ1世ダンジョの孫ジョヴァンニ・ディ・グラヴィーナが治める独立した公国となった。