エピダムノス
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ドゥラス市
Durres

ドゥラス市街


市章

位置


座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯41度19分00秒 東経19度27分00秒 / 北緯41.31667度 東経19.45000度 / 41.31667; 19.45000
歴史
建設紀元前627年
旧名エピダムノス
行政
アルバニア
 ドゥラス州
 ドゥラス県
 市ドゥラス市
人口
人口2003年現在)
  市域130,566人
その他
等時帯中央ヨーロッパ時間 (UTC+1)
夏時間中央ヨーロッパ夏時間 (UTC+2)
市外局番052
公式ウェブサイト : ⇒BASHKIA DURRES
港の風景ローマの古代遺跡

ドゥラス(アルバニア語: Durres [?dur?s](不定形)、Durresi(定形) ドゥルスィ、イタリア語: Durazzo ドゥラッツォ)は、アルバニア第2の都市ドゥラス州州都ドゥラス県県都
概要

アドリア海に面するアルバニア屈指の港湾都市。イタリアギリシャモンテネグロなどとの交易が行われる。鉄道路線を通じて内陸とも結ばれており、工業製品などの集散地としての役割を果たしている。近隣の都市として約36キロメートル東のティラナ(首都)、35キロメートル北東のクルヤなどが挙げられる。
歴史

市は、紀元前627年コリントスケルキラ出身の古代ギリシャ人によってエピダムノス(Epidamnos)として建設された[1]。周囲には岩でできた天然があり、内陸は湿地で海側は高い崖であるという地理条件が有利であった。陸海両方から、敵が攻め落とすのが難しい都市となるからである。エピダムノスは政治的に進んだ社会となったことが知られ、古代の哲学者アリストテレスはその政治システムを讃え鼓舞していた。しかし、コリントスとケルキラがエピダムノスを巡って不和となり、ケルキラがアテナイに援軍を要請して迎え撃ったことから、紀元前431年ペロポネソス戦争勃発に荷担した。
ローマとビザンティン

エピダムノスはイリュリア王グラウキアスにより紀元前312年に占領された。紀元前230年頃にイリュリア一帯の支配権を握ったテウタもエピダムノス一帯も支配し、周辺の海域で海賊行為を働いたことから、共和政ローマと間でイリュリア戦争が勃発することとなる。2次に渡るイリュリア戦争でローマが完勝したことから、エピダムノスはローマの支配下に入ることとなった。ローマ人はディラキウム(Dyrrachium、デュッラキウム、ドゥラキウムとも[2]。ギリシャ語でΔυρρ?χιον / Dyrrhachion。以下、ローマ期はデュッラキウムと記載。)と改名した。彼らはエピダムノスという名は不吉だとみなしたのである(ラテン語で失うことや損害を意味するdamnumと音が似ていた)。デュッラキウムの意味は、ギリシャ語では『悪い背骨』か『難しい尾根』となるが、真相は不明である。市近くの崖がせり出すさまを暗示していたようである。その後、デュッラキウムはビザンティウム(後のコンスタンティノープル、現在のイスタンブール)まで続くエグナティア街道の西側の起点となり、ローマの主要軍事・海軍基地として発展することになった。

紀元前49年からのローマ内戦では、デュッラキウム近郊で重要な戦闘が行われた。グナエウス・ポンペイウス元老院派の兵站基地であったドゥラキウムをガイウス・ユリウス・カエサルを中心とするカエサル派が包囲したものの、ポンペイウスの巧みな用兵によってカエサル軍は一敗地に塗れることとなった。(デュッラキウムの戦い

ローマ支配の元でデュッラキウムは繁栄した。市はテッサロニキコンスタンティノープルとを結ぶ、イグナティア街道の西の終わりとなった。別のより小さな道は南の都市ブスロトゥム(Buthrotum、現在のブトリント)へ向けて伸びていた。ローマ皇帝アウグストゥスは、アクティウムの海戦にともない自分のローマ軍団の古参兵のためにデュッラキウムを自由都市とした。

紀元4世紀、デュッラキウムはローマ属州エピルス・ノヴァ(en:Epirus Nova)の首都となった。430年頃、のちの皇帝アナスタシウス1世がここで生まれている。この世紀の終わり頃、デュッラキウムは激しい地震に襲われ、市の防御を破壊された。アナスタシウス1世は市壁を再建し強化して、バルカン半島西部で最も強力な要塞につくりかえた。12mあるという高い壁は厚く、東ローマの歴史家アンナ・コムネナによれば、壁の厚さは4人の騎兵たちが並んで馬に乗ったくらいのものだったという。顕著な古代都市の防御部分は、数世紀に渡って数を減らしてはいるものの、今も残っている。

バルカン半島の残りと同様、ディラキウムと周囲のディラキエンシス・プロヴィンシアエは、民族移動時代に異民族の相当な侵入を受けた。481年には東ゴート王国の王テオドリックに市を包囲され、その後数百年間ブルガリア人の頻繁な攻撃を防いだ。ローマ帝国が衰退すると、市は東ローマ帝国のものになり、引き続き重要港であり続け、帝国と西欧とを結ぶ主要な地であった。かつての市壁
中世

10世紀初頭、シメオン大帝支配下の第一次ブルガリア帝国がディラキウムを陥落させ、今日のアルバニア領のほとんど全てを掌握した。しかし、ペタル1世に代が変わると東ローマ側が10世紀半ばに再度征服した。10世紀終わり間際にはブルガリア人支配の新たな局面を迎え、サムイル帝がディラキウムを征服し、1018年まで支配下に置いた。ディラキウム(ブルガリア語でДрач / Drach)は、東ローマ帝国がブルガリアを服従させる際の最後のブルガリア要塞の一つにされたのだった。

ディラキウムは、1082年に東ローマ皇帝アレクシオス1世コムネノスの手から失われた。彼はノルマン人ロベール・ギスカールと息子のボエモン1世)に打ち負かされたのである(デュッラキウムの戦い (1081年))。東ローマは、ボエモンが1107年に敗退すると再びディラキウムを取り戻すが、1185年にシチリア王国ノルマン朝グリエルモ2世が占領した。1202年、第四次十字軍の最中には、市はヴェネツィア共和国の支配下へ移された。シチリア王マンフレーディが短期間治めた後、1268年にはアンジュー家のシチリア王シャルル(イタリア名カルロ1世ダンジョ)の手に渡った。

5年後の1273年頃、ディラキウムは大地震に見舞われたがすぐに復興し、カルロ1世ダンジョの孫ジョヴァンニ・ディ・グラヴィーナが治める独立した公国となった。


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