エピジェネティクス(英語: epigenetics)、後成学(こうせいがく)または後成遺伝学(こうせいいでんがく)とは、一般的には「DNA塩基配列の変化を伴わない細胞分裂後も継承される遺伝子発現あるいは細胞表現型の変化を研究する学問領域」である[1][2]。ただし、歴史的な用法や研究者による定義の違いもあり、その内容は必ずしも一致したものではない[3]。特に遺伝子(gene)ではなくゲノム(genome)を対象とする場合、エピゲノミクスあるいはエピゲノムと呼ばれることもある。
多くの生命現象に関連し、人工多能性幹細胞(iPS細胞)・胚性幹細胞(ES細胞)が多様な器官となる能力(分化能)、哺乳類クローン作成の成否と異常発生などに影響する要因(リプログラミング)、がんや遺伝子疾患の発生のメカニズム、脳機能[4][5]などにもかかわっている。 遺伝形質の発現は、セントラルドグマ説[6][7]で提唱されたようにDNA複製→RNA転写→タンパク質への翻訳→形質発現の経路により、DNAに記録されている遺伝情報が表現型として実現した結果とされてきた。セントラルドグマにおける形質の変化とは、遺伝情報の変化であり、その記録媒体であるDNA塩基配列の変化が原因となっている。レトロウイルスやレトロトランスポゾンによるRNAからDNAへの情報の還元という例外を含みながらも、従来の分子生物学・遺伝学ではセントラルドグマを基礎においた研究が行われてきた[8]。DNAメチル化の差によって尾の形状が異なる二匹のクローンマウス[9] しかしながら、先天的には同じ遺伝情報、つまり同じゲノム(DNA塩基配列)であっても、細胞レベルあるいは個体レベルの形質の表現型が異なる例もまれではない。 たとえば動物では、単細胞である受精卵から発生し、胚の全能性幹細胞はさまざまな多能性細胞系列となり、さらに器官ごとに異なった細胞に分化し、それぞれの器官・細胞は異なる機能を分担している。この過程で細胞は、分化の経歴と存在する部位に依存して、ある遺伝子を抑制する一方で、他のある遺伝子は活性化している[10]。また一卵性双生児やクローン動物、あるいは挿し木や球根・地下茎などの栄養生殖で増殖した植物でも、遺伝子型は同一にもかかわらず個体間に違いが認められることが多い。 このような例は、細胞レベルではシグナル伝達による細胞間の応答反応、個体レベルでは環境と遺伝の相互作用によって主に説明がなされていた。しかしながら、細胞がどのように経歴を「記憶」するのか、個体間の表現型の差がどのように生じるかは、遺伝子機能の面からは明らかにされていない部分があった。クロマチン中のヒストンとDNAの模式図 1942年にコンラッド・H・ウォディントン
概要
(右上)ヌクレオソーム構造: ヒストン八量体に巻き付いたDNA
(上段) H3, H4, H2A, H2B コアヒストン単量体(モノマー)
(中・下段) H3-H4テトラマーとH2A-H2Bダイマー 2個が会合し、ヒストン八量体となる。
前述の通り「エピジェネティクス」の内容は普遍的に定義されたものではない[3]。しかしながら、入門的な解説の場合、表1に示す各種の過程のうち染色体クロマチンを構成するDNAのメチル化およびヒストンの化学的修飾に重点を置いて説明される[12]。
この場合、DNA塩基配列の変化つまり突然変異と、エピジェネティック(=エピジェネティクス的)制御とは独立である。それらは、同一個体内での組織の違いあるいは個体発生・細胞分化の時間軸上の違いで生じる変化である。しかしそれらと異なり、変化した表現型が個体の世代を超えて受け継がれる「エピジェネティック遺伝」の例も見出されており、研究が進められている[13][14]。これは、ある生物におけるエピジェネティックな変化がそのDNAの基本構造を変えることができるかどうかというラマルキズム型の問題を提起する(後述のラマルキズムとの関連参照)。
表1 具体的なエピジェネティックな過程の例(内容の一部重複および異論があるものも含む)分子レベルでの機構 1942年にウォディントンは、エピジェネティクスと言う語を「後成説 (epigenesis)」と「遺伝学 (genetics)」 のかばん語として造語した。後成説は受精卵から生物の形ができることを説明する古い学説の一つである[解説 1](歴史的背景については前成説も参照のこと)。ウォディントンが造語した1942年当時は、物質的な遺伝子の本体と遺伝におけるDNAの役割は知られていなかった[解説 2]。遺伝情報が表現型を作るために周辺環境とどのように相互作用するのかという概念のモデルとして、彼はこの造語を使った[11]。形式上からいえば、エピジェネティクスは「エピ(ギリシア語: επ? 越えた, 上の, 外の)」「ジェネティクス(英語: genetics 遺伝学)」との合成と見ることもできる。 一般的にエピジェネティクスとは、下記のリッグス(1996年)の定義のように理解されている[2]。しかしながら、いくつかの定義あるいは説明が存在し、結果として、何を意味するべきかについては議論がある[3]。 ホリデー(1990年)の定義によれば、エピジェネティクスという用語は、DNA配列以外の生物の発育に影響を与えるものを記述するために使用できることになる。必ずしも遺伝(細胞分裂前の状態を分裂後にも継承)するわけではないヒストン修飾を定義に含め、「遺伝性」という条件を回避したバード(2007年)のような定義も存在する。バードによる定義は、複数細胞世代にわたる安定した変化だけではなくDNA修復または細胞周期相に関連した一時的変更をも含めるものであるが、他方では膜構造およびプリオンなどに関するものを、それらが染色体機能に影響しない限り排除している。そのような再定義は普遍的には受け入れられていないため、エピジェネティクスの定義は依然として論争の対象となっている[3]。 「遺伝学」への単語の類似性は多くの対応した用語を生み出している。「エピゲノム(英語版 エピゲノム的制御は、表現型の進化や可塑性など進化生物学で重要なできごとに関係している。多細胞生物の発生過程におけるエピジェネティックな緩衝作用は、生物集団に表現型の可塑性をもたらす。遺伝的多様性と同時に表現型の可塑性を保持していることが適応性に影響していることが指摘されている[21]。 一般的には多細胞生物におけるエピジェネティック修飾は、有性生殖の際に初期化(リプログラム)され、発生と分化および環境に対応して各世代ごとに改めて発動する遺伝子制御機構である。
DNAメチル化DNAメチル化あるいは脱メチル化により、塩基配列情報自体には変化なく遺伝子発現のオン/オフが切り替わる(後述)
ヒストンの化学的修飾メチル化・アセチル化・リン酸化などの修飾によってヌクレオソーム中のヒストンに物理化学的な変化がおき、遺伝子発現に直接的(シス型)あるいは間接的(トランス型)に影響する(後述)
非翻訳性RNAによる制御(後述)
細胞機能に影響する変化
細胞記憶細胞自体が経歴・位置に依存した遺伝子発現状態を維持していること(後述)
X染色体の不活性化哺乳類では性染色体であるX染色体の本数が雌雄で異なるため(雌2本・雄1本)、1本のX染色体の活性を残して他のX染色体の遺伝子発現を抑制すること(後述)
ゲノムインプリンティング哺乳類などの配偶子で雄雌それぞれ特異的なDNAメチル化がなされ、受精後の個体で父性・母性の遺伝子の使い分けがなされること(後述)
リプログラミング細胞(細胞核)の記憶を初期化すること(分化能を狭められた体細胞が分化能を再獲得するために必要な過程)(後述)
その他(より広範囲な現象・より限定された現象)
遺伝子サイレンシング転写レベルあるいは翻訳レベルで遺伝子発現を抑制・中断すること[15]
位置効果(英語版)遺伝子が存在する位置の上流域の構造が与える発現抑制あるいは発現活性化の効果(後述)
催奇形物質の影響催奇性物質の中にはDNA塩基配列自体の変異ではなく、エピジェネティック効果で異常をもたらすものがある(後述)
発がん過程(英語版)発がんには複数の遺伝子の変異が必要とされるが、その中にはエピジェネティックな発現制御が異常化した遺伝子も存在する(後述)
プリオン出芽酵母には突然変異発生を制御するプリオンが存在する(後述)
パラ変異(英語版)ある対立遺伝子がヘテロ状態のときに、同じ遺伝子座の対立遺伝子の発現を変えてしまうこと。発現が変わった対立遺伝子は、その状態のまま数世代に渡って遺伝することがある
語源・定義・派生用語
語源
複数の定義の違い
「遺伝物質からはじまり最終的な生物を形づくるすべての制御された過程」(ウォディントン, 1942年)[11]
「同一遺伝子型の細胞が異なる表現型を細胞分裂を越えて維持していること」の説明(Nanney, 1958年)[16][17]
「複雑な生物の発育中における遺伝子活性の時間的・空間的制御機構の研究」(ホリデー, 1990年)[18]
「DNA配列の変化では説明できない体細胞分裂および/または減数分裂に伴う遺伝子機能における遺伝的な変化の研究」(リッグス, 1996年)[1][2]
「変化した活性状態を記録・信号伝達または継続させるような染色体領域の構造適応」(バード, 2007年)[19]
「エピジェネテックな形質とは、DNA塩基配列の変更を伴わない染色体の変化に起因する安定した遺伝性の表現型を示すもの」(Bergerら, 2009年)[20][解説 3]
派生用語
進化・適応とのかかわり
表現型可塑性と適応
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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