エバーハルト・フォン・マッケンゼン
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エーベルハルト・フォン・マッケンゼン
Eberhard von Mackensen
閲兵中のマッケンゼン(1944年)
生誕1889年9月24日
ドイツ帝国
プロイセン王国
ポーゼン県(英語版) ブロンベルク(現: ポーランド ブィドゴシュチュ
死没 (1969-05-19) 1969年5月19日(79歳没)
西ドイツ
シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州 ノイミュンスター[1]
所属組織 ドイツ帝国陸軍
 ヴァイマル共和国陸軍
 ドイツ陸軍
軍歴1908年?1944年
最終階級 陸軍上級大将
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フリードリヒ・アウグスト・エーベルハルト・フォン・マッケンゼン(: Friedrich August Eberhard von Mackensen、1889年9月24日 - 1969年5月19日)は、ドイツの陸軍軍人第二次世界大戦で軍司令官を務めた。最終階級は陸軍上級大将
経歴
初期の軍歴

1889年9月24日プロイセン王国ブロンベルクに、軍人アウグスト・フォン・マッケンゼンの息子として生まれる。兄弟にはナチス・ドイツ時代に外務次官を務めたハンス・ゲオルク(ドイツ語版)がいる。

1908年に軍に入り、見習士官としてダンツィヒの第17軍団に配属される。1910年、少尉に任官。第一次世界大戦では、騎兵将校として参加。1915年に中尉に昇進。同年8月に負傷したのち、中隊長に任命される。1917年に大尉に昇進し、バルカン半島戦線に転属となる。

戦後は第5騎兵連隊第1大隊長を経て、ベルリンの国防省兵務局輜重部長となる。1928年に少佐に昇進し、1930年から第1騎兵師団参謀を務める。1932年、中佐に昇進。1933年11月、騎兵監察部参謀長に就任。1934年9月、大佐に昇進し、1935年にハンブルクの第10軍団参謀長となる。1937年、第1騎兵旅団長。1938年1月に少将に昇進し、翌年5月にヴィルヘルム・リスト上級大将の下で第5軍集団参謀長を務める。

プロイセン学派の一員として多くのユンカー出身将校と同じく、熱狂的騎兵信奉者であった。そのため、騎兵総監のクノッヘンハウアーを支持、逆にハインツ・グデーリアンの装甲戦術理論を批判した。
第二次世界大戦ヒトラーとの東部戦線作戦会議に出席するマッケンゼン(右から2人目)(1942年6月)

第二次世界大戦が勃発した9月に第14軍参謀長に任命され、ポーランド侵攻に参加。1940年1月1日、騎兵中将に昇進、フランス侵攻には第14軍参謀長として参加している。フランス降伏後の同年8月1日騎兵大将に昇進。1941年1月15日。第3装甲軍団長に任命される。

同年6月22日から始まった独ソ戦では、南方軍集団の傘下に入り参戦する。エヴァルト・フォン・クライスト上級大将が指揮する第1装甲軍の主要部隊として、10月のドニエプル突破作戦に参加し、巧妙な作戦を展開することによりソ連軍の2個野戦軍を殲滅することに成功する。1942年ブラウ作戦では、ソ連軍6個野戦軍の包囲に成功し、この功績を評価され5月26日には95番目の柏葉騎士十字章を受賞する。

その後もコーカサス進撃の足掛かりとしてロストフ攻略戦を軽微な損傷で勝利をおさめた。12月21日、クライストがA軍集団司令官に昇進し、それに合わせて彼の後任となり第1装甲軍司令官となる。スターリングラード攻防戦では、A軍集団が危機的状況に陥るも、彼の巧妙な作戦で危機を突破する。1943年2月の第三次ハリコフ攻防戦で戦果を上げ、7月6日に上級大将に昇進。クルスク戦後に守勢へ回されるも、優秀な作戦立案能力により、部隊をミウス川の防衛ラインまで撤退させることができた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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