エド・デラハンティ
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エド・デラハンティ
Ed Delahanty
1903年
基本情報
国籍 アメリカ合衆国
出身地 アメリカ合衆国
オハイオ州クリーブランド
生年月日1867年10月30日
没年月日 (1903-07-02) 1903年7月2日(35歳没)
身長
体重6' 1" =約185.4 cm
170 lb =約77.1 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション外野手
初出場1888年5月22日
最終出場1903年6月25日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)


フィラデルフィア・クエーカーズ (1888 - 1889)

クリーブランド・インファンツ (1890)

フィラデルフィア・フィリーズ (1891 - 1901)

ワシントン・セネターズ (1902 - 1903)

アメリカ野球殿堂 殿堂表彰者
選出年1945年
選出方法ベテランズ委員会選出
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■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

エド・デラハンティ(Edward James Delahanty, 1867年10月30日 - 1903年7月2日) は、アメリカ合衆国オハイオ州クリーブランド出身のプロ野球選手左翼手)。右投げ右打ち。愛称は"Big Ed"(ビッグ・エド)。
経歴

5人兄弟の長男で、5人全員がプロの野球選手として活躍した経歴を持つ。1888年5月に、トライステート・リーグのホイーリング球団からフィラデルフィア・クエーカーズに入団する。デビュー当時は内野手・外野手を半分ずつこなしていた。1890年プレイヤーズ・リーグに1年参加した後、翌年再びフィリーズに戻り、主に外野手として試合に出るようになった。守備での動きは俊敏だったそうで、当時は「ヒューマン・グラスホッパー」の異名ももっていた。

打撃面では1892年に初めて打率が3割を超え、この年リーグ最多の21本の三塁打と長打率リーグ1位の記録を残す。その後1893年に投手?本塁間の距離が60フィート6インチとなるルール改訂によって、デラハンティの打撃成績は飛躍的に向上した。同年デラハンティはリーグ最多となる19本の本塁打と146打点を挙げる。翌1894年と1895年はいずれも打率が4割を超えた。1896年には二塁打44、本塁打13、打点126(いずれもリーグ最多)をマーク。1899年には自身3度目の4割超えとなる打率.410で首位打者となる。同年の137打点と238安打、55本の二塁打もいずれもリーグ最多であった。

デラハンティは1901年までフィリーズの主軸として活躍していたが、アメリカンリーグ設立後の1902年にワシントン・セネターズ(現ツインズ)に移籍する。この年デラハンティは打率.376で自身2度目の首位打者となる。その後もセネタースの牽引役を期待されていたが、1903年のシーズン中にナイアガラ川で事故死(詳細下記)。1945年アメリカ野球殿堂ベテランズ委員会により殿堂入り選手に選出された。
事故死

1903年6月25日の試合後、デラハンティは遠征中のチームから離れる。永く会っていない夫人に会うためという。7月2日、カナダからアメリカへ向かう列車の車中で泥酔したデラハンティは、オンタリオ州フォートエリーのブリッジバーグ駅で強制的に列車から降ろされた[1]。この駅はナイアガラ川(アメリカとカナダの国境)の起点側(南側)に位置し、ナイアガラの滝からは上流に離れた地域にある。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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