エドヴィン・フォン・マントイフェル
Edwin von Manteuffel
マントイフェルの肖像画
生誕1809年2月24日
ザクセン王国、ドレスデン
死没 (1885-06-17) 1885年6月17日(76歳没)
オーストリア=ハンガリー帝国
カールスバート
所属組織 プロイセン陸軍
ドイツ帝国陸軍
軍歴1827年 - 1885年
最終階級 陸軍元帥
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マントイフェルの自筆
エドヴィン・フォン・マントイフェル男爵(独: Edwin Freiherr von Manteuffel、1809年2月24日 ? 1885年6月17日)は、プロイセンおよびドイツの貴族、軍人。ドイツ統一時代のプロイセンで活躍した「政治将軍」。爵位は男爵で陸軍の最終階級は元帥。
1857年に陸軍省人事局長、1859年に軍事内局局長に就任し、ヴィルヘルム1世の信任を得てプロイセン軍部の最有力者となった。強硬な王権至上主義者であり、政府と衆議院の対立が深まる中で衆議院に対する軍事クーデタを狙っていたが、1865年に宰相ビスマルクと陸相ローンの策動でシュレースヴィヒ総督に左遷されて事実上失脚した。 1809年2月24日、マクデブルク高等裁判所長の息子としてドレスデンで生まれた[1]。マントイフェル家は政治家や軍人を多数輩出した名門貴族だが、エドヴィンは貧しい分家の生まれだった[2]。従兄のオットー・フォン・マントイフェル(後のプロイセン首相)とともに育てられた[1]
経歴
前半生
1843年に大尉、1848年に少佐に昇進。同年、国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世の副官となった[1]。熱心な王権至上主義者として、国王や、1848年革命で成立した自由主義政府を牽制するために強硬保守派が宮廷内に結成した国王顧問団「カマリラ(ドイツ語版)」から注目される人材となった[2]。
1852年に中佐、1853年には大佐に昇進し、それに伴い第五槍騎兵隊を任され、またウィーンやサンクトペテルブルクに外交使節としても派遣された[1]。
1857年に少将に昇進[1]。同年2月、陸軍省人事局長に任じられた[2][3]。
「大元帥(国王)と軍の直接の結合」を強調していたマントイフェルは、1857年10月に国王代理人に就任した軍人的性格を持つ皇太弟ヴィルヘルム王子(後のプロイセン王・ドイツ皇帝)と意気投合した。二人は1858年7月にも国王の軍事に関する勅書について陸軍大臣の副署を必要とするケースを制限する旨の勅令を出すことで陸軍大臣の影響力を弱体化させた[3]。 1858年10月にヴィルヘルム王子が摂政に就任すると、自由主義保守派政権「新時代
軍事内局局長に就任
新時代内閣陸軍大臣グスタフ・フォン・ボーニン(ドイツ語版)は「陸軍省と軍事内局の並立には法的根拠が無い」と主張し、陸軍省を無視して軍人事を行うようになったマントイフェルと対立を深めていった。この対立はヴィルヘルムが「軍を指揮するのは大元帥であり、陸軍大臣ではない」と述べてマントイフェルを擁護したことでマントイフェルの勝利に終わり、1859年11月28日にボーニンは陸軍大臣辞職に追い込まれた(後任の陸相はローン)[6]。
1861年1月にヴィルヘルムが国王に即位すると中将に昇進した[1]。即位まもなくヴィルヘルムはマントイフェルの進言で「統帥権行使に関する勅令」を発した。これにより軍勤務事項・軍人事についての国王勅令には陸軍大臣の副署が不要とされ、国王に直属する軍事内局局長の権勢がさらに高まった[7]。 ローンがヴィルヘルムの指示のもと立案した軍制改革の予算案をめぐって、政府と衆議院自由主義派の対立が深まると、マントイフェルはカール王子や侍従武官長グスタフ・フォン・アルフェンスレーベン
衆議院へのクーデタをめざして
衆議院の反政府闘争が激化していく中、自由主義左派政党ドイツ進歩党議員カール・トヴェステン(ドイツ語版)がマントイフェルのことを「不健全な地位にある不健全な人物」「軍隊と久しく没交渉状態にある政治将軍」と中傷するパンフレットを作製した。これに激怒したマントイフェルは、1861年5月27日にトヴェステンと決闘に及び、トヴェステンの右腕を撃ち抜いた。この決闘は話題になり、国王ヴィルヘルムも衝撃を受けたという[10][注釈 1]