エドヴァルド・ベネシュ
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エドヴァルド・ベネシュ
Edvard Bene?

エドヴァルド・ベネシュ(1942年頃撮影)
チェコスロバキア共和国
第2・4代 大統領
任期1935年12月18日1938年10月5日1945年4月2日 ? 1948年6月7日
首相ミラン・ホッジャ
ヤン・スィロヴィー
ズデニェク・フィールリンゲル
クレメント・ゴットワルト
チェコスロバキア共和国
第4代 首相
任期1921年9月26日1922年10月7日
大統領トマーシュ・マサリク
内閣ベネシュ内閣(チェコ語版)
チェコスロバキア共和国
初代 外務大臣
任期1918年11月14日1935年12月18日
大統領トマーシュ・マサリク
内閣一覧参照

クラマーシュ内閣
第1次トゥサル内閣
第2次トゥサル内閣
第1次チェルニー内閣
ベネシュ内閣
第1次シュヴェフラ内閣
第2次シュヴェフラ内閣
第2次チェルニー内閣
第3次シュヴェフラ内閣
第1次ウドルジャル内閣
第2次ウドルジャル内閣
第1次マリペトル内閣
第2次マリペトル内閣
第3次マリペトル内閣
第1次ホッジャ内閣


出生1884年5月28日
オーストリア=ハンガリー帝国 ボヘミア王国 コジュラニ
死去 (1948-09-03) 1948年9月3日(64歳没)
チェコスロバキア セジモヴォ・ウスティ
政党チェコ進歩党
(1908年 - 1915年)
チェコスロバキア国民社会党
(1923年 - 1935年)
受賞
出身校プラハ・カレル大学
パリ大学
パリ政治学院
ブルゴーニュ大学
配偶者ハナ・ベネショヴァ
(1909年 - 1948年)
署名

エドヴァルド・ベネシュ(チェコ語: Edvard Bene?, チェコ語発音: [??dvard ?b?n??] ( 音声ファイル), 1884年5月28日 - 1948年9月3日)は、チェコスロバキア共和国政治家首相(1921年 - 1922年)、大統領(1935年 - 1938年、1945年 - 1948年)、外務大臣(1918年 - 1935年)。
来歴・人物

ボヘミアのコジュラニ出身。独立以前は、プラハカレル大学講師を務めていたが、第一次世界大戦中、トマーシュ・マサリクの右腕として独立運動を指揮する。1918年から1935年まで外務大臣を務め、1935年からマサリクの後任として第2代大統領に就任。チェコスロヴァキア国民社会党所属。

ミュンヘン協定締結後の1938年10月、国土が縮小されるに至った責任を取るために大統領を辞任[1]ロンドンに亡命した。この時、独立以降チェコスロヴァキアに交誼を図っていたフランスへ亡命しなかったのは、ダラディエに裏切られたという失望感に加え、英国政界の対独強硬派(チャーチルイーデンなど)に対する一縷の希望が存在したためという説がある。1940年に亡命政府の大統領となり、独立の回復に尽力する。その際、ミュンヘン協定時に英仏によって見捨てられたこと、戦後にソ連の存在感が増大することを重視し、1943年に再びソ連と相互友好援助条約を締結した(外相時代の1935年5月16日にもチェコスロバキア=ソ連相互援助条約を締結していた)。

第二次世界大戦後、大統領に復帰し、1945年、領内のドイツ系及びハンガリー系住民に対し、チェコスロバキア国籍を剥奪のうえ、私有財産を没収し、国家収用する旨の指令を発した(ベネシュ布告)。その後、次第にチェコスロヴァキア共産党およびソ連の圧力が強まり、1948年2月の政変によって実質的に権限を喪失し、6月7日に辞職。同年9月、ボヘミアのセジモヴォ・ウースチーで死去した。1939年ベンジャミン・フランクリン・メダル受賞。
没後

ビロード革命後のチェコにおいては、ミュンヘン協定や共産化に対する責任などへの批判も根強い[2]。2004年4月13日には「エドヴァルド・ベネシュは国家に貢献した」との条文をもつ「エドヴァルド・ベネシュの功績を称える法律」が下院によって議決され、上院で否決されたものの、下院の再可決により成立している[3]。ただしこの法律は単にベネシュを顕彰するためのものではなく、ベネシュ布告に対するドイツ側からの問題提議を抑止する目的もあった[3]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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