エドワード8世の退位
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エドワード8世と3人の弟(アルバートヘンリージョージ)が署名した退位詔書(1936年12月10日)

エドワード8世の退位(英語: Abdication of Edward VIII)は、1936年に行われたイギリスの君主退位。当時の王・皇帝だったエドワード8世が、最初の夫と離婚した後、再婚した夫との離婚話を進めていたアメリカ人のソーシャライトウォリス・シンプソンに求婚したことから始まり、大英帝国の憲政を揺るがす危機に発展した。

この結婚には、イギリス本国とイギリス連邦自治領の政府が反対した。宗教的、法的、政治的、道義的な観点から反対意見が出されたのである。イギリスの君主であるエドワードは、イングランド国教会の名目上の頭領であり、イングランド国教会は離婚者の元配偶者が存命の場合、教会で再婚する事を認めていなかった[注釈 1]。このため、エドワードはシンプソンと結婚した上で、玉座にとどまる事はできず、過去に2度の婚姻歴があったシンプソンは、政治的にも社会的にも王妃の候補として不適任と広く見なされていた。エスタブリッシュメントの間では、彼女は国王への愛より、財産や地位を目当てにしていると思われていたにもかかわらず、エドワードは、シンプソンを愛しており、彼女の2度目の離婚が成立したらすぐにでも結婚するつもりだと宣言した。

シンプソンを王妃として受け入れる事への広範な拒否反応、そしてエドワードが彼女との結婚をあきらめる事を拒否した事によって、1936年12月の彼の退位につながった[注釈 2]

彼の後継者として弟のアルバートが、ジョージ6世として即位した。エドワードは退位の翌年、ウィンザー公爵位と殿下(英語版)の称号が与えられ、シンプソンと結婚した。夫妻は夫が35年後に没するまで婚姻を継続した。
交際発覚まで1932年のエドワード

1931年1月10日、プリンス・オブ・ウェールズだったエドワードは、ファーネス子爵夫人から、イギリスの海運会社経営者アーネスト・アルドリッチ・シンプソン(英語版)のアメリカ人妻であるウォリス・シンプソンを紹介された。アーネスト・シンプソンはウォリスの2番目の夫で、最初の夫だったアメリカ海軍パイロットのウィン・スペンサー(英語版)とは1927年に離婚している。1934年、エドワードと交際中だったファーネス夫人がアメリカの親戚を訪ねている間に、ウォリス・シンプソンとエドワードが恋愛関係になったと一般的に言われている。しかし、エドワードは父のジョージ5世に対して、シンプソンとは肉体関係にはなく、彼女を愛人と表現するのは不適切だと断固と主張した[3]。エドワードはシンプソンとの関係によって、彼の両親との関係をさらに弱める事になった。ジョージ5世とメアリー王妃は、1935年にバッキンガム宮殿でシンプソンに謁見したものの[4]、その後、彼らは彼女を迎え入れる事を拒否した[5]。エドワードとシンプソンは、ひそかにロンドン警視庁の特別部(英語版)によって尾行されており、彼らの関係の性質や、ウォリス・シンプソンの私生活について、「悪質なゴシップの追求」や「秘密の恋人」の特定を含む調査報告書が作成された[6]。疑わしい過去を持つアメリカ人の離婚経験者が、法定推定相続人に重大な影響力を持つという観測は、政府や政府関係者の間に不安をもたらした[7]

1936年1月20日、エドワード8世が父の跡を継いだ後、シンプソンは国王の賓客としてより多くの公式行事に出席した。彼女の名前は王室行事日報(英語版)に定期的に登場していたにもかかわらず、彼女の夫の名前は目立たなかった[8]。その年の夏、国王は恒例のバルモラル城の長期滞在を避け、シンプソンと地中海東部で休暇を過ごした。この事はアメリカやヨーロッパ大陸の報道機関で広く取り上げられたが、イギリスの報道機関は沈黙を守っていた。 しかし、外国の報道に接する事ができたカナダ人や外国在住のイギリス人は、その報道に大きな衝撃を受けた[9]地中海でのエドワード8世とウォリス・シンプソン、1936年

10月になると、上流社会や外国では、エドワードはシンプソンの離婚が成立して自由の身になったら、結婚するつもりではないかと噂されるようになった[10]。 同月末には、彼女が離婚を申請し、アメリカの報道機関が彼女と国王の結婚が間近に迫っていると報じた事で、危機は一気に高まった[11]。11月13日、国王秘書官(英語版)アレック・ハーディングは、国王に警告の手紙を出した。「陛下とシンプソン夫人の友好関係に関するイギリスの報道機関の沈黙は維持できそうにありません... 報道機関が率直に報じている外国在住のイギリス人からの手紙から判断すると、その影響は大きな物になるでしょう[12]。」イギリスの上級閣僚たちはハーディングが国王に手紙を書いた事を察知しており、彼の手紙の下書きにも関わったとも推測されている[13]

翌週の月曜日(11月16日)、国王はスタンリー・ボールドウィン首相をバッキンガム宮殿に招き、シンプソンと結婚するつもりである事を伝えた。ボールドウィンは、そのような結婚は国民に受け入れられないと答えた上で、「王妃は一国の妃になるのです。だから、王妃を選ぶ時には、国民の声を聞かなければなりません。」と述べた[14]。ボールドウィンの考えは、元オーストラリア首相でロンドン駐在のオーストラリア高等弁務官だったスタンレー・ブルース(英語版)も共有していた。ハーディングが国王に手紙を出した同じ日、ブルースはハーディングに面会した後、ボールドウィンに手紙を出し、国王とシンプソンの結婚に恐怖を感じている事を伝えている[15]

この状況下でも、イギリスのマスコミはこの問題について沈黙を守っていたが、12月1日にブラッドフォード主教(英語版)のアルフレッド・ブラント(英語版)が教区会議で演説を行い、国王が神の恩寵を必要としている事に言及し、 「私たちは、彼が自らの必要性を認識している事を願っています。私たちの中には、彼が自らの必要性に気づいている事をもっと積極的に示してほしいと思う人もいます[16]。」と述べた。これは、危機に対する著名人最初の公式発言として報道され、12月3日の一面トップを飾るニュースとなった[17]。しかし、後にその事を聞かれた主教は、演説の原稿を書いた時点ではシンプソンの事は知らなかったし、国王が教会の礼拝に参列してない事に対する失望について述べた物と答えている[18]。2日後、エドワードの職員の助言により、シンプソンはイギリスを離れて南フランスに向かい、マスコミの激しい注目から逃れようとした。彼女も国王も、この別離に大きな衝撃を受けていた。涙の出発の際、国王は「私は絶対に君を諦めない。」と言った[19]
反対意見

複数の方面から国王と彼の結婚に対する反対意見が届いていた。王室を近代化し、より身近なものにしたいというエドワードの希望は、多くの国民から評価されていたが[20]、イギリスのエスタブリッシュメントからは不信感を抱かれていた[21]。エドワードは貴族たちの伝統や儀式を軽視する事によって貴族たちを動揺させ、多くの人々は、彼が受け入れられた社会的規範やモラルを放棄する事に不快感を覚えた[22]
社会と道義

政府閣僚や王室は、ウォリス・シンプソンの経歴や行動は、王妃として受け入れがたい物だと考えていた。彼女に関する噂や陰口が出回った[23]。 国王の母であるメアリー王妃は、シンプソンが中国の売春宿で学んだ方法により、原因不明性機能障害から解放する事でエドワードをある種の性的支配下に置いていたのではないかと述べた[24]


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