この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2021年10月)
エドワード・シルヴェスター・モース
Edward Sylvester Morse
生誕1838年6月18日
アメリカ合衆国・メイン州ポートランド
死没 (1925-12-20) 1925年12月20日(87歳没)
アメリカ合衆国・マサチューセッツ州セイラム
死因・脳溢血
研究分野動物学、オリエンタリズム
研究機関ハーバード大学
ピーボディー科学アカデミー
ボウディン大学
東京帝国大学
主な業績大森貝塚を発掘
日本で初めて進化論を体系的に紹介
影響を
受けた人物ルイ・アガシー
ダーウィン
主な受賞歴勲三等旭日中綬章(1898年)
勲二等瑞宝章(1922年)
プロジェクト:人物伝
テンプレートを表示
エドワード・シルヴェスター・モース(Edward Sylvester Morse、1838年6月18日 - 1925年12月20日)は、アメリカ合衆国の動物学者。名字の「モース」は「モールス」とも書かれる。
標本採集に来日し、請われて東京帝国大学のお雇い教授を2年務め、大学の社会的・国際的姿勢の確立に尽力し、大森貝塚を発掘し、日本の人類学・考古学の基礎をつくった[1]。また、日本に初めてダーウィンの進化論を体系的に紹介した。 1838年にメイン州ポートランドで生まれた。父は会衆派教会の助祭で厳格なカルヴァン主義者だったが、母は夫の宗教的信念を共有しておらず、子供の科学への興味を奨励した。 最初にポートランドの村の学校、1851年にニューハンプシャー州コンウェイのアカデミー、1854年にブリッジトン・アカデミーに通ったが、その全てで手に負えない学生であり、全ての学校から退学させられた。ブリッジトン・アカデミーの退学理由は、机に彫刻をしたためだった。その後、メイン州ベテルのグールド・アカデミー
生涯
若年期
若い頃は、ポートランド機関車会社の機械製図技師、ボストンの会社の木彫職人として働いていた。ダーウィンの『種の起源』が出版された1859年、フィリップ・ピアサール・カーペンター(英語版)がモースの知的資質とデッサン力を認めて、ハーバード大学比較動物学博物館のルイ・アガシーに推薦し、1861年まで軟体動物や腕足類のコレクションの保存、記録、デッサンを担当する助手を務めた。アガシーの教授を受ける中で、アガシーが腕足類を擬軟体動物に分類していたのを疑問に思ったのが、腕足類研究を思い立ったきっかけであった[3]。アガシーやジェフェリーズ・ワイマン(Jefferies Wyman)の講義を聞き、ワイマンの貝塚発掘にも関係した。生物学界に人脈も作った。
南北戦争中、第25メイン歩兵隊に入隊しようとしたが、慢性的な扁桃腺感染症のために辞退した。1863年6月18日、ポートランドでエレン・エリザベス・オーウェンと結婚した。2人の間には子供が2人いた。
講演にたけ、その謝礼金が生活を助けた。1867年、ジョージ・ピーボディ(George Foster Peabody)の寄付を得て、3人の研究仲間とセイラムに『ピーボディー科学アカデミー』(1992年以降のピーボディ・エセックス博物館)を開き、1870年まで軟体動物担当の学芸員を務めた。1868年、セイラムに終生の家を構えた。
1871年、大学卒の学歴がないにもかかわらず、31歳でボウディン大学教授に就任し、ハーバード大学の講師も兼ねながら、1874年までボウディン大学で過ごした。1872年からアメリカ科学振興協会の幹事になった。
日本へ大森貝塚(大森貝墟碑)・東海道線
進化論の観点から腕足動物を研究対象に選び、1877年(明治10年)6月、腕足動物の種類が多く生息する日本に渡った。文部省に採集の了解を求めるため横浜駅から新橋駅へ向かう汽車の窓から、貝塚を発見。これが、後に彼によって日本初の発掘調査が行なわれる大森貝塚である。訪問先の文部省では、外山正一から東京大学の動物学・生理学教授への就任を請われた。江ノ島に臨海実験所を作ろうとも言われた。
翌7月、東大法理文学部の教授に就任。当時、新設なった東大の外国人教授の大半が研究実績も無い宣教師ばかりだったため、これに呆れたモースは彼らを放逐すると同時に、日本人講師と協力して専門知識を持つ外国人教授の来日に尽力[3]。物理学の教授には、トマス・メンデンホールを、哲学の教授にはアーネスト・フェノロサを斡旋した。さらに、計2,500冊の図書を購入し、寄贈を受け、東大図書館の基礎を作った。