エドワード・ギアリー・ランスデール
Edward Geary Lansdale
エドワード・ランスデール(1963年)
生誕 (1908-02-06) 1908年2月6日
アメリカ合衆国 ミシガン州デトロイト
死没1987年2月23日(1987-02-23)(79歳)
アメリカ合衆国 バージニア州マクレーン
エドワード・ギアリー・ランスデール(Edward Geary Lansdale, 1908年2月5日 - 1987年2月23日)は、アメリカの軍人、諜報員。アメリカ陸軍および空軍の将校として勤務したほか、戦略情報局(OSS)や中央情報局(CIA)のエージェントとして様々な秘密任務に従事した。最終階級は空軍少将。冷戦初期におけるアメリカの積極的行動の支持者の1人である。 1908年、ランスデールはミシガン州デトロイトにて母サラ・フランシス・フィリップスと父ヘンリー・ランスデールの元に4人兄弟の次男として生を受けた。彼はミシガン、ニューヨーク、カリフォルニアの学校に通った後、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)に入学した。UCLA卒業後は雑誌・新聞記事の執筆者として働き、ロサンゼルスやサンフランシスコに暮らした。 第二次世界大戦中の1943年以降、ランスデールは陸軍少尉たる戦略情報局(OSS)の秘密工作官として諜報任務に従事し、昇進を重ねた。1945年、ランスデール少佐は西太平洋空軍司令部(Headquarters Air Forces Western Pacific)の情報部責任者に就任する。 その後、1948年までフィリピン陸軍に出向し、陸軍情報部の再構築支援や戦争捕虜問題の処理などにあたった。また、こうした公的な任務の裏で旧日本軍がフィリピン各地に隠匿した黄金(山下財宝)の捜索および回収という秘密任務にも従事した。ランスデールによって回収された金塊は世界各地の銀行に送られ、CIAによる秘密活動の資金として流用された[1]。1947年、アメリカ空軍が陸軍より独立すると、ランスデールは大尉として空軍に移籍し、まもなくして改めて少佐となる。1948年にフィリピンを離れると、コロラド州のローリー空軍基地 1953年、ランスデールはジョン・W・オダニエル 1957年から1963年にかけて、ランスデールは国防総省のいくつかの部局に配属され、特殊作戦担当国防長官副補佐官(Deputy Assistant to the Secretary of Defence for Special Operations)、軍事援助に関する大統領委員会委員(Staff Member of the President's Committee on Military Assistance)、国防長官補佐官(Deputy Assistant to the Secretary of Defence[3])などの役職を務めた。1960年代初頭にはキューバに対する秘密作戦の展開に関与し、その中にはフィデル・カストロ暗殺計画も含まれており、これらはマングース作戦(Operation Mongoose)と呼ばれるCIAのカストロ打倒計画の一環であった。 1963年11月1日に空軍を退役する。1965年から1968年にかけて、彼はベトナムに戻りアメリカ大使館
若年期
第二次世界大戦
フィリピン
ベトナム
反カストロ作戦
その後
1987年2月23日、心臓病により死去[4]。
ケネディ大統領暗殺事件への関与について