エドワード・ベイリャル
Edward Balliol
スコットランド王
在位1332年 - 1356年
戴冠1332年9月24日、スクーン
出生1282年頃
死去1364年
ウィートレイ
王家ベイリャル家
父親ジョン・ベイリャル
母親イザベル・ド・ワーレン
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エドワード・ベイリャル(Edward Balliol, 1282年頃 - 1364年)は、スコットランド独立戦争時代のスコットランド王(在位:1332年 - 1356年)、または王位僭称者。 スコットランド王となったジョン・ベイリャルの長子であるが、1296年にジョンが廃位された後、1299年まで共にロンドン塔に幽閉された[1]。釈放された後、父ジョンはフランス・ピカルディの所領に隠遁したが、エドワードは外祖父である前スコットランド総督・サリー伯ジョン・ド・ワーレンの許で過ごした。 1306年にロバート・ブルースがロバート1世として即位すると、スコットランドにおけるベイリャル家の王位は否定され、所領も没収された。1314年にエドワード2世率いるイングランド軍がスコットランドに侵攻したが、バノックバーンの戦いで大敗し、ロバート1世の王位は確定した[2]。 しかし、1329年にロバート1世が亡くなり、わずか5歳のデイヴィッド2世が王位を継ぐと、所領を失っていたベイリャル派のスコットランド貴族たちはイングランド王エドワード3世の支援を受け、1332年8月にエドワード・ベイリャルを担いでスコットランドに侵攻した[3]。ベイリャル派はブルース派の国王軍をダプリン・ムーアの戦い しかし、エドワード・ベイリャルは支援への見返りとして南部諸州をイングランドに割譲したため、スコットランド人の多くはイングランド王の傀儡と見なして支持しなかった。エドワード・ベイリャルはわずかに本領のガロウェイ エドワード3世は翌1333年にスコットランドへ侵攻し、ハリダン・ヒルの戦い
目次
1 生涯
1.1 亡命者
1.2 即位
1.3 空虚な王位
1.4 退位
2 脚注
3 参考文献
生涯
亡命者
即位
空虚な王位
1337年から百年戦争が始まると、エドワード3世の関心はフランスに集中し、エドワード・ベイリャルはスコットランドで孤立した。1341年にデイヴィッド2世がフランスの支援を受けて帰国したが、1346年10月にネヴィルズ・クロスの戦いでイングランド軍に大敗し、囚われの身となった[5]。エドワード・ベイリャルがネヴィルズ・クロスの戦いに参加したのかは不明であるが、参加していたとしても重要な役割を果たしておらず、この時点では既に利用価値を失っていたと見られている。 1350年代に入ると、デイヴィッド2世が囚われているにもかかわらず、エドワード・ベイリャルの王権が確立できないことは明らかになった。1356年にエドワード・ベイリャルは退位し、エドワード3世に王位と所領を譲ったが、既に実質的な意味は失われていた。
退位