エドワード・プレブル
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エドワード・プレブル
Edward Preble

生誕1761年8月15日
グレートブリテン王国マサチューセッツ湾直轄植民地 ファルマス
死没 (1807-08-25) 1807年8月25日(46歳没)
アメリカ合衆国ポートランド
所属組織 マサチューセッツ州海軍
アメリカ海軍
最終階級大佐
戦闘トリポリ港の戦い
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エドワード・プレブル(英語: Edward Preble, 1761年8月15日 - 1807年8月25日)は、アメリカ合衆国の海軍軍人。トリポリ港の戦いでアメリカ艦隊の指揮を執ったことで知られる。
生涯
マサチューセッツ州海軍時代

エドワード・プレブルは、アメリカ合衆国独立前の1761年に、マサチューセッツ湾直轄植民地ファルマス(現在のメイン州ポートランド)で生まれた[1]

アメリカ独立戦争が勃発すると、故郷のファルマスは1775年にイギリス軍の攻撃で焼かれた。プレブルは1777年に16歳で独立側の私掠船に乗り組み、海軍軍人としての第一歩を踏み出した。1779年にマサチューセッツ州海軍(en)のミジップマン(en、士官候補生の一種)となり、フリゲート「プロテクター」に配属された。「プロテクター」では2度の戦闘を経験したものの、1981年に乗艦がイギリス海軍に拿捕された。プレブルは捕虜となってニューヨーク沖の監獄船「ジャージー」(en)で拘束されたが、翌年に釈放された。プレブルは州海軍に戻ると「ウィンスロップ」の海尉に昇進し、実戦で移乗攻撃班の指揮官などを務めた[1]
合衆国海軍時代擬似戦争での乗艦「ピッカリング」。

プレブルは独立戦争終結後に商船員となったが、フランス革命戦争の影響でフランスとの擬似戦争に陥ると、再建されたアメリカ合衆国海軍の一等海尉として1798年4月に採用された[1]。翌1799年1月に税関監視船隊(アメリカ沿岸警備隊の前身)から貸与(後に完全移管)された小型ブリッグ艦「ピッカリング」(en, 4ポンド砲14門)の艦長に任命され、6月まで西インド諸島方面での通商保護に従事した。任務中に、自艦より強力なフランス私掠船「L'Egypte Conquise」(9ポンド砲14門・6ポンド砲4門)と遭遇し、9時間の戦闘の末に降伏へと追い込んでいる[2]。同年12月からは新鋭フリゲート「エセックス」(en)の艦長に任命されて海佐(後の大佐相当)に昇進、中国方面航路の通商保護のため1800年1月にニューヨークから出航し、インド洋アメリカ軍艦旗を掲げた初めての海軍士官という栄誉を担う[3]

1803年にプレブルは代将として地中海戦隊の指揮を命じられ、2年前から継続中の第一次バーバリ戦争に従軍した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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