エドワード・バーン・ジョーンズ
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エドワード・バーン=ジョーンズ
エドワード・バーン=ジョーンズの肖像
フィリップ・バーン=ジョーンズ画)
本名Edward Coley Burne-Jones
誕生日 (1833-08-28) 1833年8月28日
出生地 イギリス バーミンガム
死没年1898年6月17日(1898-06-17)(64歳)
死没地 イギリス ロンドン
国籍 イギリス
運動・動向ラファエル前派
芸術分野画家
デザイナー
代表作眠り姫
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『廃墟のなかの恋Love Among the Ruins 』ウィリアム・モリスとの共作のステンドグラス『David's Charge to Solomon』(1882年)マサチューセッツ州ボストンにあるトリニティー教会ウィリアム・モリスとの共作の精細装飾(1882年)トリニティ教会の『Worship of the Shepherds』を描いた窓『コフェチュア王と乞食娘King Cophetua and the Beggar Maid 』(1884年)現在ロンドン・テート・ギャラリーにて展示バーミンガム、ベネッツ・ヒルのブルー・プラーク

初代准男爵、サー・エドワード・コーリー・バーン=ジョーンズ(Sir Edward Coley Burne-Jones, 1st Baronet, 1833年8月28日 - 1898年6月17日)は、イギリス美術家ラファエル前派と密接な関係を持つデザイナーで、ラファエル前派をイギリス画壇の主流に押し上げた。同時に、自身も数々の精巧で美しい芸術作品を作り上げた。フィリップ・バーン=ジョーンズの父である。
作品と生涯

バーン=ジョーンズはバーミンガムのベネッツ・ヒルで、めっき師の息子として生まれた。彼の生家には、その誕生を祝うブルー・プラークが掲げられている。彼が生まれて6日と経たないうちに母親が亡くなり、父親と冷淡な家政婦によって育てられた[1][2]。バーミンガムのキング・エドワード6世グラマースクールに通い[3]、1848年から1852さらにオックスフォード大学エクスター・カレッジで神学を学ぶ[4]。オックスフォード大学では、ウィリアム・モリスと友人になり、ジョン・ラスキンに感化された。同じ頃、その後の彼の人生に大きな影響を与えることになる、トマス・マロリーの『アーサー王の死』と出会った。

それからバーン=ジョーンズはダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの下で学ぶことになるが、彼特有のスタイルを発展させたのは、むしろラスキンたちとのイタリア旅行に依るものが大きい。彼は聖職者になるつもりだったが、モリスの影響で美術家、デザイナーになることに決めた。結局学位を得ることなくオックスフォード大学を卒業。彼はイギリスのステンドグラス美術の伝統の復活に打ち込むようになった。彼のステンドグラス作品には、フィリップ・ウェッブが設計したカンブリア州ブランプトンのセント・マーティン教会の窓などがある。

1856年、バーン=ジョーンズは、マクドナルド姉妹の次女ジョージアナ・マクドナルド(1840年 - 1920年)と婚約した。彼女は画家になる勉強をしていて、バーン=ジョーンズの妹とは昔からの学友であった。1860年に二人は結婚したが、以後も彼女は木版画を描き、ジョージ・エリオットとは大の親友になった(マクドナルド姉妹の三女はサー・エドワード・ポインターと結婚。四女は製鉄業者アルフレッド・ボールドウィンと結婚し、首相となるスタンリー・ボールドウィンを生む。さらに長女はラドヤード・キップリングの母親。つまり、キプリングとスタンリー・ボールドウィンはバーン=ジョーンズの甥にあたる)。

1867年、バーン=ジョーンズ夫妻はロンドンフラムに居を構えた。1870年代のほとんど、バーン=ジョーンズは展覧会を開かなかった。バーン=ジョーンズはモデルであったギリシア人マリア・ザンバコと不倫関係になり妻の元を去っており、そのために新聞紙上で批判されていたからである。二人の関係は彼女の公衆の面前での自殺未遂で幕を閉じた[5][6]。同じ時期にウィリアム・モリスの妻ジェーン・モリスダンテ・ゲイブリエル・ロセッティと恋仲になっており、ジョージアナとモリスは次第に友情関係を深めていった。結局バーン=ジョーンズ夫妻もモリス夫妻も別れることはなかったが、ジョージアナとモリスは生涯近しい友人として交際していた[7]

1877年、グロウブナー・ギャラリー(ロイヤル・アカデミーの新たな敵)で、『欺かれるマーリンThe Beguiling of Merlin 』を含む、8点の油彩画の展示を承知させられた。絶好のタイミングだった。彼は新しい耽美主義の先駆者およびスターとして取り上げられることになった。

絵画同様、彼はセラミックスタイルジュエリータペストリーなどの様々な工芸品も制作した。他にも本の挿絵(1896年のチョーサーの本、ケルムスコット・プレス刊)、舞台衣裳などを手懸けた。

1880年、バーン=ジョーンズはサセックスのブライトン近郊にある、ロッティンディーンのプロスペクト・ハウスを購入し、別荘とした。さらに、ノース・エンド・ハウス(フラムの本宅がノース・エンド・ロードにあることから命名)建設のため、隣のオーブリー・コテージも手に入れた(数年後の1923年、ロイター社長のサー・ロデリック・ジョーンズと、劇作家で小説家のその妻エニッド・バグノルドは、地続きのゴシック・ハウスと一緒にこの別荘を所有し、バグノルドの戯曲『The Chalk Garden』(映画化された時の邦題は「ドーバーの青い花」)を着想させ、また舞台となった)。

オックスフォード大学から、1881年に名誉学位を授与、さらに1883年には、特待校友となった。1885年バーミンガム芸術家協会の会長に就任。1894年にはナイトに叙せられた。1896年、友人のモリスの死に精神的打撃を受け、バーン=ジョーンズ自身の健康も徐々に悪化し続けた。そのまま回復することなく、1898年6月17日、永眠[8][9]。6日後、プリンス・オブ・ウェールズの仲介で、ウェストミンスター寺院で葬儀が執り行われた。


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