エドワード・ハイド_(初代クラレンドン伯爵)
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イングランド王国政治家初代クラレンドン伯爵
エドワード・ハイドEdward Hyde
1st Earl of Clarendon
初代クラレンドン伯エドワード・ハイド(ピーター・レリー画)
生年月日1609年2月18日
出生地 イングランド王国ウィルトシャー・ディントン(英語版)
没年月日 (1674-12-09) 1674年12月9日(65歳没)
死没地 フランス王国 ルーアン
出身校オックスフォード大学マグダリン・ホールミドル・テンプル法学院
前職法廷弁護士
称号初代クラレンドン伯爵、初代コーンベリー子爵、初代ハイド男爵、枢密顧問官(PC)
配偶者(1)アン・アイリッフェ
(2)フランセス・エイルズバリー
親族ヘンリー・ハイド(英語版)(父)、第2代クラレンドン伯爵(英語版)(長男)、初代ロチェスター伯爵(次男)
財務大臣
在任期間1643年 - 1646年
1660年 - 1661年
国王チャールズ1世
チャールズ2世
大法官
在任期間1658年 - 1667年
国王チャールズ2世
庶民院議員
選挙区シャフツベリ選挙区(英語版)
ウットン・バセット選挙区(英語版)
サルタッシュ選挙区(英語版)
在任期間1640年
1640年
1640年 - 1642年
貴族院議員
在任期間1660年 - 1674年
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初代クラレンドン伯爵エドワード・ハイド(英語: Edward Hyde, 1st Earl of Clarendon, 1609年2月18日 - 1674年12月9日)は、清教徒革命イングランド内戦)から王政復古期のイングランドの政治家・歴史家・貴族。

1640年庶民院議員となり、穏健進歩派としてチャールズ1世の専制政治を批判した。しかし国王大権の剥奪など急進的改革には反対し、王と議会の和解に努めた。清教徒革命が勃発すると立憲王政派として行動して国王の信任を得た。1645年には皇太子チャールズ(後のチャールズ2世)とともに亡命し、彼の亡命宮廷に仕えた。

1660年の王政復古後にはチャールズ2世の重臣として国政を主導、長期議会初期の立法を基礎とした立憲王政の確立を目指した。1661年から1665年に制定された一連の非国教徒弾圧法は彼の名をとって「クラレンドン法典」と呼ばれているが、彼自身はこれに否定的だった。英蘭戦争の敗北などで批判が高まり、1667年に失脚。フランスへ亡命し、歴史書『イングランドの反乱と内戦の歴史(英語版)』を著した。

1660年にハイド男爵、1661年にクラレンドン伯爵に叙された。

アン・ハイドはイングランド国王ジェームズ2世の最初の妻であり、したがってイングランド女王メアリー2世アンは外孫に当たる。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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