イングランド王国の政治家初代クラレンドン伯爵
エドワード・ハイドEdward Hyde
1st Earl of Clarendon
初代クラレンドン伯エドワード・ハイド(ピーター・レリー画)
生年月日1609年2月18日
出生地 イングランド王国、ウィルトシャー・ディントン
初代クラレンドン伯爵エドワード・ハイド(英語: Edward Hyde, 1st Earl of Clarendon, 1609年2月18日 - 1674年12月9日)は、清教徒革命(イングランド内戦)から王政復古期のイングランドの政治家・歴史家・貴族。
1640年に庶民院議員となり、穏健進歩派としてチャールズ1世の専制政治を批判した。しかし国王大権の剥奪など急進的改革には反対し、王と議会の和解に努めた。清教徒革命が勃発すると立憲王政派として行動して国王の信任を得た。1645年には皇太子チャールズ(後のチャールズ2世)とともに亡命し、彼の亡命宮廷に仕えた。
1660年の王政復古後にはチャールズ2世の重臣として国政を主導、長期議会初期の立法を基礎とした立憲王政の確立を目指した。1661年から1665年に制定された一連の非国教徒弾圧法は彼の名をとって「クラレンドン法典」と呼ばれているが、彼自身はこれに否定的だった。英蘭戦争の敗北などで批判が高まり、1667年に失脚。フランスへ亡命し、歴史書『イングランドの反乱と内戦の歴史(英語版)』を著した。
1660年にハイド男爵、1661年にクラレンドン伯爵に叙された。
娘アン・ハイドはイングランド国王ジェームズ2世の最初の妻であり、したがってイングランド女王メアリー2世・アンは外孫に当たる。
概要(英語版)の子として生まれる。オックスフォード大学マグダリン・ホールやミドル・テンプル法学院で学び、法廷弁護士となる(→生い立ち)。
第2代フォークランド子爵ルーシャス・ケアリーらと交流を深めて穏健進歩派の論客となり。1629年以来議会を招集せずに専制政治を行っていたチャールズ1世やその側近の初代ストラフォード伯爵トマス・ウェントワースを批判した(→反専制の進歩派となる)。
1640年に11年ぶりに召集された議会(短期議会と長期議会)で庶民院議員に当選して政界入りし、親政期に行われた圧政を追及した(→庶民院議員として政界入り)。1641年のストラフォード伯弾劾にも賛成したが、この頃から急進派議員と議会外大衆の急進活動を懸念するようになり、議会と国王の均衡を求める穏健派として、同年に可決された『議会の大諫奏』については国王大権の干犯として反対した(→急進的進歩派を懸念)。
以降国王に近しい立場になって「立憲王党派」と呼ばれるようになり、ジョン・ピムら急進派議員と対立を深めた。1642年1月に国王が急進派議員をクーデタ的に逮捕しようとして失敗してヨークへ逃れる事件が発生すると、議会は急進派が掌握するところとなった。彼も5月に逮捕の危機に晒されてヨークの国王のもとに逃れた(→立憲的国王派として)。国王の信任を受け、1643年には財務大臣に任じられた。内乱勃発後も穏健な王党派として議会と国王の和解を目指したが、和平交渉は実を結ばなかった(→清教徒革命をめぐって)。
国王軍の旗色が悪くなった1645年に国王の命令で皇太子チャールズ(後のチャールズ2世)とともに亡命した。当初ジャージー島やオランダで暮らし、パリに作られたチャールズの亡命宮廷には積極的に参加しなかったが、1651年頃からチャールズの側近として亡命宮廷の中心人物となり、王政復古の下地作りに励んだ(→皇太子の亡命宮廷で)。
1658年のオリバー・クロムウェルの死でイングランド共和国が動揺すると、王政復古へ向けた政治工作を本格化させ、ジョージ・マンク将軍の取り込みや革命期の行動を大逆罪に問わないことを保証したブレダ宣言などによって1660年に議会に王政復古を決議させることに成功した。