エドワード・テラー(Edward Teller、 もとのハンガリー名ではテッレル・エデ(Teller Ede)、 1908年1月15日 - 2003年9月9日)は、ハンガリー生まれでアメリカ合衆国に亡命したユダヤ人理論物理学者である。アメリカ合衆国の「水爆の父」として知られる。ローレンス・リバモア国立研究所は彼の提案によって設立された。
本来の専門分野では、原子核物理学、分子物理学などで多くの業績があり、代表的なものにヤーン・テラー効果やBETの吸着等温式がある。 1908年、オーストリア=ハンガリー帝国のブダペストで弁護士の父と、銀行家の娘で4カ国語をこなす才媛の母のもとに生まれた[1]。テラー家は、裕福なユダヤ人知識階級であった。幼少のころから算数の才能を見せ、学校に上がる前に足し算・引き算のみならずかけ算を覚えたという逸話がある。 11歳のころの1919年3月21日、オーストリア=ハンガリー帝国は崩壊し、クン・ベーラ率いるハンガリー共産党が権力を奪取し、ハンガリー・ソビエト共和国を建国。ハンガリーの貴族や地主・資本家階級とされた人々の企業・土地といった資産をすべて没収し、国有化した。 この影響で父マックスが弁護士の職を失い、一家は貧窮した[2]。 同年8月、ハンガリー・ソビエト共和国はホルティ・ミクローシュ大将率いるハンガリー国新陸軍
生涯
生い立ちと学歴
テラーはブダペストで短期間化学工学を学んでおり、ドイツで高等教育を受け、そこでも同じく化学そして数学を学び、1930年にライプツィヒ大学のヴェルナー・ハイゼンベルクの元で物理学の博士号を取得した。その後、ゲッティンゲン大学で助教授として2年を過ごした[3]。
1933年にドイツの政権を握ったアドルフ・ヒトラーが反ユダヤ主義政策を取り始めると、テラーは1934年、ユダヤ人救出委員会(英語版)の助けでドイツを離れる決心をした。一時期イングランドに滞在した後、ニールス・ボーアのいたコペンハーゲンで1年を過ごし、1935年8月、アメリカ合衆国に移住した。また、その直前の1934年2月、テラーは初恋の人ミチ (Mici) と結婚している[4]。同じハンガリー出身のレオ・シラードが、アルベルト・アインシュタインの署名入りの書簡を使ってアメリカ政府に原子爆弾の研究を働きかけた際には、ユージン・ウィグナーとともにその活動に加わっていた。
幼少時代のハンガリーでの好ましくない経験にもかかわらず、1930年に世界恐慌の波がドイツに押し寄せ、資本主義の崩壊を目の当たりにしたテラーは、社会主義・共産主義に両義的感情と興味を抱いていた。 しかし、アメリカ合衆国に渡った後、友人のレフ・ランダウがソ連政府によって逮捕されたことを伝え聞くなど、ソ連への反感を次第に強めていった。 1943年にスターリン体制の下での理不尽な裁判と粛清を描いたアーサー・ケストラーの小説『真昼の暗黒』を読んだことが決定的な契機となって、以降は根強い反共感情を抱くようになった[5]。 1941年までジョージ・ワシントン大学で教鞭を執り、そこでジョージ・ガモフに出会ったテラーは、1942年、ブリッグス委員会 (Briggs committee) で働きながら、マンハッタン計画に参加する。第二次世界大戦中、テラーはロスアラモス国立研究所の理論物理学部門に所属し、核分裂だけの核爆弾から核融合を用いた超強力爆弾(水素爆弾)へ核兵器を発展させるべきだと強く主張した。
水爆開発