第12代ダービー伯爵
エドワード・スミス=スタンリーEdward Smith-Stanley, 12th Earl of Derby
12代ダービー伯爵(トマス・ゲインズバラ画、1785年)
生年月日1752年9月12日
出生地 グレートブリテン王国、ランカシャー州、プレストン
没年月日1834年10月21日 (満82歳没)
死没地 イギリス、ランカシャー州、ノウズリー
第12代ダービー伯爵エドワード・スミス=スタンリー(英: Edward Smith-Stanley, 12th Earl of Derby PC、1752年9月12日 - 1834年10月21日)は、イギリスの貴族、政治家、馬主、競走馬生産者。
ホイッグ党に所属し、第3代ポートランド公爵ウィリアム・キャヴェンディッシュ=ベンティンクと初代グレンヴィル男爵ウィリアム・グレンヴィルの政権でランカスター公領大臣を務めた。
競馬のオークスステークス、ダービーステークスの発案者としても知られる。 1752年、イングランド北部のランカシャー州プレストンで、第11代ダービー伯爵エドワード・スタンリーの嫡子ストレンジ卿ジェームズ・スミス=スタンリー[註釈 1]の長男として生まれる[1][2][3]。1764年にイートン・カレッジに入学。卒業後の1771年にケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに進み、1773年にM.A.の学位を取得した[4]。 1774年よりランカシャー州選挙区選出の庶民院議員[5]。1776年に祖父が死去したため第12代ダービー伯爵となり貴族院へ移り、また祖父が務めていたランカシャー統監
経歴
1783年に成立した第3代ポートランド公爵ウィリアム・キャヴェンディッシュ=ベンティンクを名目上の首班とするチャールズ・ジェイムズ・フォックスとノース卿フレデリック・ノースの連立政権(フォックス=ノース連立内閣、第1次ポートランド公爵内閣とも)ではランカスター公領大臣として入閣、同時に枢密顧問官にも列せられた[7]。1806年、グレンヴィル男爵ウィリアム・グレンヴィルの政権(英語版)で再びランカスター公領大臣となった[8][註釈 2]。
1834年にランカシャー州のノウズリー(英語版)[註釈 3]で死去し、同州のオームズカーク(英語版)に葬られた[1]。伯爵位は長男のスタンリー卿エドワードが相続した。