グレートブリテン王国の政治家第11代ダービー伯爵
エドワード・スタンリーEdward Stanley
11th Earl of Derby
ヘンリー・ピッカリング画のダービー伯爵
生年月日1689年9月27日
没年月日 (1776-02-22) 1776年2月22日(86歳没)
死没地 グレートブリテン王国・イングランド・ランカシャー・ノーズリー
第11代ダービー伯爵エドワード・スタンリー(英: Edward Stanley, 11th Earl of Derby、1689年9月27日 - 1776年2月22日)は、イギリスの貴族、政治家。
ダービー伯爵家の分家スタンリー准男爵家の生まれだったが、1736年に本家が絶えたためダービー伯爵位を継承した。
経歴(英語版)荘園の地主である第4代准男爵サー・トマス・スタンリー(英語版)とその妻エリザベス(旧姓パッテン)の長男として生まれた[1][2]。
1714年5月に父の死により第5代准男爵位を継承し、同年9月にラフォード荘園の地主ロバート・ヘスキスの娘エリザベスと結婚した[3][1]。1723年にはランカシャー長官(英語版)に就任した[1]。1727年から1736年にかけてランカシャー選挙区(英語版)から選出されてホイッグ党所属の庶民院議員を務める[1]。政治派閥的にはサー・ロバート・ウォルポール首相に反対する所謂「愛国派」に属したが、彼は政治活動よりもランカシャー南部地主としての社交活動をもっぱらとしていた[3]。
1736年に第10代ダービー伯爵ジェームズ・スタンリーが死去し、本家筋のダービー伯爵家が絶えた。系図を大幅にさかのぼった男系傍流である彼が第11代ダービー伯爵位を継承し[注釈 1]、貴族院へ移籍した[2]。
1742年にはランカシャー知事(英語版)に就任した[1]。名誉革命で国を追われたステュアート朝国王ジェームズ2世の孫チャールズ・エドワードが1745年9月にジャコバイト派(反名誉革命派。ステュアート朝復位派)やイギリスと交戦状態にあったフランスの支持を得て、ハノーヴァー朝からイギリス王位を奪還するための軍事行動を開始し、瞬く間にスコットランド首府エディンバラを占領した[6]。