エドワード・コーク
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イングランド王国政治家エドワード・コークEdward Coke

生年月日1552年2月1日
出生地 イングランド王国ノーフォーク・マイルハム
没年月日 (1634-09-03) 1634年9月3日(82歳没)
出身校ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジインナー・テンプル
称号枢密顧問官(PC)
配偶者ブリジット・パストン
エリザベス・ハットン(英語版)
庶民院議員
選挙区オールドバラ選挙区(英語版)
ノーフォーク選挙区(英語版)
リスカード選挙区(英語版)
コヴェントリー選挙区(英語版)
ノーフォーク選挙区
バッキンガムシャー選挙区(英語版)
在任期間1589年
1593年
1621年 - 1622年
1624年
1625年 - 1626年
1628年 - 1629年
法務次官(英語版)
在任期間1592年6月16日 - 1594年4月10日
女王エリザベス1世
法務長官
在任期間1594年4月10日 - 1606年7月4日
女王
国王エリザベス1世
ジェームズ1世
民事高等裁判所首席裁判官(英語版)
在任期間1606年6月30日 - 1613年10月25日
国王ジェームズ1世
王座裁判所首席裁判官(英語版)
在任期間1613年10月25日 - 1616年11月15日
国王ジェームズ1世
その他の職歴
庶民院議長
(1592年 - 1593年)
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サー・エドワード・コーク(Sir Edward Coke, PC, 1552年2月1日 - 1634年9月3日)は、イングランド法律家政治家。中世ゲルマン法に由来するコモン・ローの法思想を理論化し、近代の法思想として継承させることに成功し、「法の支配」という憲法原理を確立した。英国法の発展に大きく貢献した法律家の一人。植民地の起業家でもあった。

姓はクックとも発音ならびに表記される[1][2]
生涯
法律の専門家として台頭

ノーフォーク・マイルハムでジェントリの家庭に生まれ、1567年ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジへ入学、1572年法曹院の1つであるインナー・テンプルに入学、1578年に弁護士となった。それから法律家として活躍し始め、バーリー男爵ウィリアム・セシルの引き立てもあり出世、1586年ノリッジの裁判官、1589年庶民院議員、翌1590年にインナー・テンプルの幹部員、1592年ロンドンの裁判官に選ばれた。同年に法務次官(英語版)と庶民院議長も兼任、前者は1594年まで、後者は1593年まで務めた[3][4]

1594年には法務長官トマス・エジャートンの後任として法務長官に昇進した。この時、バーリー男爵と次男ロバート・セシル(後の初代ソールズベリー伯)の政敵エセックス伯ロバート・デヴァルーが長官にフランシス・ベーコンを推したが、次官のコークが長官に昇進するのが順当で、エリザベス1世とバーリー男爵やほとんどの枢密顧問官もコークを推していたため、最終的にコークと決まった。また、1597年にベーコンが富裕な未亡人でバーリー男爵の孫娘エリザベス・ハットン(英語版)(バーリー男爵の長男トマス・セシルの娘でウィリアム・ハットン卿の未亡人)との結婚を望みエセックス伯も後押ししたが、エリザベスはコークを再婚相手に選び2人は翌1598年に再婚した。コークにとってもこれは再婚だった[3][4][5]

長官在任中は王権擁護の立場から次々と裁判を手掛け、1601年2月8日にエジャートンらと共に女王の使者としてクーデターを起こす直前のエセックス伯を訪問したが屋敷に幽閉され、クーデターに失敗して捕らえられたエセックス伯を2月19日の裁判でベーコンと共に裁き、1603年ウォルター・ローリーも裁判にかけて有罪判決を下した。1605年から1606年にかけて火薬陰謀事件関係者も容赦なく訴追した一方、法廷で活動してから関与した訴訟を記録し全11巻にも及ぶ『判例集』編纂を進めていった[3][4][6]
コモン・ローを掲げ王権と対立

ところが、1606年に民事高等裁判所首席裁判官(英語版)へ転身してからコークの姿勢が変化した。コモン・ローを擁護しそれを扱う裁判所(民事高等裁判所(英語版)、王座裁判所(英語版)、財務府裁判所(英語版))の権限を拡大、他の裁判所や王権との対立を引き起こしたのである。背景には北部評議会(英語版)などの裁判所新設、大法官裁判所(英語版)などのエクイティ(衡平法)の裁判所が権限を拡大、これらを通じて国王大権が伸長しコモン・ロー裁判所との争いが生じた事情があった。しかし国王ジェームズ1世とその側近になっていたベーコンからすれば、コークの方がコモン・ローを盾に取った越権行為をしていることになり、コークはベーコンおよびジェームズ1世との対立が避けられなくなった[4][7][8]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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