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イングランド王国の政治家エドワード・コークEdward Coke
生年月日1552年2月1日
出生地 イングランド王国、ノーフォーク・マイルハム
没年月日 (1634-09-03) 1634年9月3日(82歳没)
出身校ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ、インナー・テンプル
称号枢密顧問官(PC)
配偶者ブリジット・パストン
エリザベス・ハットン
サー・エドワード・コーク(Sir Edward Coke, PC, 1552年2月1日 - 1634年9月3日)は、イングランドの法律家・政治家。中世ゲルマン法に由来するコモン・ローの法思想を理論化し、近代の法思想として継承させることに成功し、「法の支配」という憲法原理を確立した。英国法の発展に大きく貢献した法律家の一人。植民地の起業家でもあった。
姓はクックとも発音ならびに表記される[1][2]。 ノーフォーク・マイルハムでジェントリの家庭に生まれ、1567年にケンブリッジ大学トリニティ・カレッジへ入学、1572年に法曹院の1つであるインナー・テンプルに入学、1578年に弁護士となった。それから法律家として活躍し始め、バーリー男爵ウィリアム・セシルの引き立てもあり出世、1586年にノリッジの裁判官、1589年に庶民院議員、翌1590年にインナー・テンプルの幹部員、1592年にロンドンの裁判官に選ばれた。同年に法務次官
生涯
法律の専門家として台頭
1594年には法務長官トマス・エジャートンの後任として法務長官に昇進した。この時、バーリー男爵と次男ロバート・セシル(後の初代ソールズベリー伯)の政敵エセックス伯ロバート・デヴァルーが長官にフランシス・ベーコンを推したが、次官のコークが長官に昇進するのが順当で、エリザベス1世とバーリー男爵やほとんどの枢密顧問官もコークを推していたため、最終的にコークと決まった。また、1597年にベーコンが富裕な未亡人でバーリー男爵の孫娘エリザベス・ハットン(英語版)(バーリー男爵の長男トマス・セシルの娘でウィリアム・ハットン卿の未亡人)との結婚を望みエセックス伯も後押ししたが、エリザベスはコークを再婚相手に選び2人は翌1598年に再婚した。コークにとってもこれは再婚だった[3][4][5]。
長官在任中は王権擁護の立場から次々と裁判を手掛け、1601年2月8日にエジャートンらと共に女王の使者としてクーデターを起こす直前のエセックス伯を訪問したが屋敷に幽閉され、クーデターに失敗して捕らえられたエセックス伯を2月19日の裁判でベーコンと共に裁き、1603年にウォルター・ローリーも裁判にかけて有罪判決を下した。1605年から1606年にかけて火薬陰謀事件関係者も容赦なく訴追した一方、法廷で活動してから関与した訴訟を記録し全11巻にも及ぶ『判例集』編纂を進めていった[3][4][6]。 ところが、1606年に民事高等裁判所首席裁判官
コモン・ローを掲げ王権と対立