エドワード・オーガスタス
Prince Edward Augustus
ケント公
1818年のケント公
在位1799年4月22日 - 1820年1月23日
続柄ジョージ3世第4王子
全名エドワード・オーガスタス
Edward Augustus
称号ケント=ストラサーン公爵
ダブリン伯爵
身位Prince(王子)
敬称His Royal Highness(殿下)
出生1767年11月2日
グレートブリテン王国
イングランド、ロンドン、バッキンガム館
死去 (1820-01-23) 1820年1月23日(52歳没)
イギリス
イングランド、デヴォン、シドマウス、ウッドブルック・コテージ
埋葬1820年2月12日
イギリス
イングランド、ウィンザー城、聖ジョージ礼拝堂
配偶者ヴィクトリア・オブ・サクス=コバーグ=ザールフィールド
子女ヴィクトリア女王
家名ハノーヴァー家
父親ジョージ3世
母親シャーロット・オブ・メクレンバーグ=ストレリッツ
役職ジブラルタル総督
陸軍元帥
フリーメイソン・イングランド古代派グランドロッジ
ケント=ストラサーン公エドワード・オーガスタス王子(The Prince Edward Augustus, Duke of Kent and Strathearn, 1767年11月2日 - 1820年1月23日)は、イギリス王ジョージ3世の四男でヴィクトリア女王の父。ジェームズ1世の仍孫、ジョージ1世の玄孫、ジョージ2世の曾孫であり、エドワード7世は孫、ジョージ5世は曾孫、ジョージ6世は玄孫、エリザベス2世は来孫、チャールズ3世は昆孫、ウィリアム王太子は仍孫、ジョージ王子は雲孫である。 イギリス王ジョージ3世と王妃シャーロットの5子としてロンドンのバッキンガム館(後のバッキンガム宮殿)に生まれる[1][2]。 1786年にイギリスとハノーファーの陸軍の将校となり[2]、ジブラルタルやカナダの駐屯地に勤務したが、部下に過酷な刑罰を科して快楽を得ていた。その結果3回にわたって兵隊が彼に反乱を起こす事態となり[1]、落馬事故もあって1799年にはイギリスへ帰国する羽目となった[2]。私生活でも借金まみれの自堕落生活を送っていた。 帰国時の1799年4月22日にケント公爵、ストラーサン公爵、ダブリン伯爵に叙せられた[3]。また同年5月10日には大将に昇進[2]。 1800年秋には北アメリカ(カナダ)駐留軍最高司令官
経歴
1813年にはフリーメイソンのイングランド・古代派グランドロッジ(英語版)のグランドマスターに就任した[4]。しかしまもなく古代派グランドロッジと近代派グランドロッジ(英語版)は統合されて連合グランドロッジが創設され、そのグランドマスターには近代派のサセックス公爵オーガスタス・フレデリック王子が就任した[5]。
ナポレオン戦争には従軍せず、ナポレオン敗退後にはブリュッセルで生活を始めた[2]。
彼は1790年頃にジブラルタルで知り合ったフランス人ジュリー・サン・ローランと27年にわたって同棲生活を送っていたが[1][6]、1817年に長兄の摂政皇太子ジョージの一人娘シャーロット・オーガスタが薨去すると、ジョージ3世の王子たちにしかるべき君主家の娘を妻に迎えての嫡出子作りが強く期待されるようになった。ケント公にも摂政皇太子と議会は資金援助をちらつかせて正規の妻を持つよう促した。ケント公は王朝の存続より借金地獄から逃れたいという個人的欲望に突き動かされ、ジュリーと絶縁してザクセン=コーブルク=ザールフェルト公国の公フランツの娘でエミヒ・カール・ツー・ライニンゲン侯爵未亡人のヴィクトリアと結婚した[7]。
翌1819年にヴィクトリア妃との間にアレクサンドリナ・ヴィクトリア(ヴィクトリア女王)を儲けたが、エドワード自身は1820年1月に薨去した。