エドワード・ウォーレン・クラーク(Edward Warren Clark、1849年1月27日 - 1907年6月5日)は、アメリカ合衆国の教育者、牧師。明治時代の日本で、教育者として活動し、その経験を帰国後に著書『Life and Adventure in Japan』(1878年)にまとめた[1]。ミドルネームは「ワレン」と表記される場合もある。
経歴
1849年1月27日 ニューハンプシャー州ポーツマスで会衆派(組合派)牧師の父ルーファス・ウィールライト・クラーク(Rufus Wheelwright Clark)と母エリザ・ウォルトン(Eliza Walton)の6人の子供の第三子(兄2人・弟2人・妹1人)として生まれる[2]。少年時代に事故で目を傷つけ、それが生涯の重荷となる[3]。
1865年 ニュージャージー州ニューブランズウィックのラトガース大学に入学[3]。留学していた畠山義成(後に開成学校の校長となる)と会い、日本に関心を持つ。同級生ウィリアム・グリフィスと親友となる。
1869年 会衆派教会の牧師の父につれられてヨーロッパを旅行、スイスのジュネーブに留学し神学校で学ぶ[3]。
1871年
1月 勝海舟が、駿府藩が徳川の旧幕臣たちのために静岡に設立した「駿府学問所」(のち、「静岡学問所」に改称)の教員を探している旨の手紙をグリフィスに送る。これに対しグリフィスが親友のクラークを推薦。クラークはそのことによって来日[4]することになる。
10月26日 横浜に到着[5]。雇用契約を行う。クラークのコック、仙太郎(サム・パッチ)と供に来日[6]。
11月9日 - 横浜で中村正直と面会[5]。
12月1日 - 中村正直と供に横浜を出発。[7]
12月6日 - 静岡に着任し[7]、静岡市三松の蓮永寺に入居[8]。
12月25日 - 静岡学問所で授業開始[7]。静岡学問所で旧幕臣の師弟に倫理、歴史、語学、物理、化学、数学を教えた。
教師を行う傍ら、自宅でバイブルクラスを行った。その時出席した中村正直に感化を与え、彼の生涯の友となった[9]。中村正直の『自由之理』にはクラークによる序文も付けられている[10]。クラークと学問所との契約ではキリスト教の布教が禁じられていたが、勝の計らいで不問にされた[11]。そこで、キリスト教に入信した人たちが静岡バンドを形成した。
1872年
1月 - 中村正直、『自由之理』を出版。この本にはクラークによる序文が付けられている[10]。
1月27日 - 15代将軍徳川慶喜公に油絵を1枚献上し、お礼として大火鉢を受ける[8]。
1月30日 - ウィリアム・グリフィスがクラークの元を訪問。このときグリフィスは1月22日から2月2日までかけて福井から東京に移っている。[3]
3月 - 元徳川藩士の村上正局(まさちか)によって発見された相良油田の調査を行い、石油と判定する[12][13][14]。
8月 - 駿府城内に彼の住居となる洋館(クラーク邸)が完成し、蓮永寺から移り住んだ[15]。
クラーク邸の建築はクラークへの狙撃事件がきっかけである。警備を考慮して駿府城内に建築された。
クラーク邸の設計はクラーク自身が行っている。
クラーク邸は石造りの洋館としてはおそらく日本最初である。
クラーク邸は後任のカナダ・メソジスト教会の宣教師デイヴィッドソン・マクドナルドも住んでいる。
クラーク邸は火災で焼失し、現在その場所には静岡家庭裁判所が建っている。
9月5日 - 9月4日の学制頒布に伴い、静岡学問所廃止。静岡学問所は人見寧(人見 勝太郎)により私立英学校賤機舎として再出発。
10月 駿府学問所の廃止に対して抗議し、「諸県学校ヲ恵顧スルコトヲ勧ムル建議」を政府に提出[15][16]。
1873年
8月 ジェームス・ハミルトン・バラ宣教師と供に富士登山を行う[17]。
11月14日 - 文部省、静岡県に対しクラークの上京、東京開成学校教師就任を指示[18]。
12月23日 - 静岡学問所が廃止されたため静岡を去り、東京開成学校の科学の教授になる[18]。東京では学校付近の外人教師用住宅にグリフィスと一緒に生活した[19]。