エドワード・ウォートリー・モンタギュー(英語: Edward Wortley Montagu、1678年2月8日 ? 1761年1月22日)は、イギリスの政治家、外交官。1716年から1718年まで在オスマン帝国イギリス大使(英語版)を務め、庶民院議員を通算で54年間務めた。首相ロバート・ウォルポールには一貫して反対の立場だったが、ウォルポール内閣が崩壊した後は老齢により政界で活躍できなかった。妻は作家メアリー・ウォートリー・モンタギュー(旧姓ピアポント)であり、メアリーは1739年から1761年まで大陸ヨーロッパで過ごしたが、2人はその間も文通相手であり続けた。同名の息子エドワードの浪費癖に悩み、1755年にしたためた遺言状で135万ポンドに上る遺産のほとんどを娘メアリーに譲った。 シドニー・ウォートリー・モンタギュー閣下 1705年イングランド総選挙
生涯
生い立ち
アン女王の治世における議会活動と結婚
議会では1705年10月の議長選挙で宮廷の支持するジョン・スミスに投票し、1707年2月28日に合同法案の賛成側の投票計算系を務め、1707年末にスコットランド枢密院(英語版)の廃止に賛成するなど、ホイッグ党色が強かったが大蔵卿(英語版)初代ゴドルフィン男爵シドニー・ゴドルフィンに常に賛成しているわけではなかった[2]。ジャコバイト陰謀でもある1708年のフランスによるイギリス侵攻計画をめぐり同年3月11日に庶民院で可決された決議案で(名指しはしなかったものの)ロバート・ハーレーへのにらみを利かせる文言を追加させ、イギリス海軍をジャコバイトからの守備に動かしたことについて4月1日に庶民院を代表し、ロード・ハイ・アドミラルの王配ジョージへの感謝を述べた[2]。1709年2月から3月にかけて、外国人プロテスタントの帰化法案を推進し、2月5日の演説でプロイセン王国がフランスからのユグノーを受け入れたことで潤ったという事例を紹介して支持を呼びかけ、3月7日に庶民院で可決させて法案を貴族院に回した[2]。ヘンリー・サシェヴェレル(英語版)の弾劾裁判(1710年)では1月25日の演説で「臣民の反抗を適法としつつ、国王の絶対君主化を容易にすることは、国王と国民の間の戦争という危機に国が常に晒されることを意味する」(to render it, at the same time, lawful for the subject to resist, and easy for a prince to become absolute, is bringing the nation into perpetual danger of war between the king and people)と批判したが、結局サシェヴェレルの弾劾には賛成した[2]。ほかにも多くの私法案(private bills)に関わった[2]。
私生活では1700年代より姉妹アンからメアリー・ピアポント(1689年 ? 1761年、第5代キングストン=アポン=ハル伯爵エヴリン・ピアポントの長女)への手紙を代筆しており、1710年にアンが死去するとウォートリー・モンタギューは自らメアリーと文通するようになった[6]。やがてウォートリー・モンタギューがメアリーに求愛するようになると、メアリーは友人にはなれるが恋仲になれるかはわからないと述べた[7]。