エドモンド・マローン
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エドモンド・マローン
ジョシュア・レイノルズによるマローンの油絵の肖像
誕生1741年10月4日
アイルランド王国ダブリン
死没1812年5月25日(1812-05-25)(70歳)
イングランドロンドン
職業法律家歴史家
署名
ウィキポータル 文学
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エドモンド・マローン (: Edmond Malone, 1741年10月4日 - 1812年5月25日) は、アイルランドのシェイクスピア学者であり、ウィリアム・シェイクスピア作品の編集者でもある。マローンはまた、当時の多くの学者がシェイクスピアの本物の著作であると信じたアイアランド贋作事件を論駁した中心人物でもあった。
来歴
出生と生い立ち

エドモンド・マローンは1741年10月4日、アイルランド王国の首都ダブリンで父エドモンド・マローン(1704年 - 1774年)、母キャサリン・コリアのもとに生まれる。父はアイルランド議会の下院議員、アイルランドの民訴裁判所の裁判官でもあり、母は第1代キャザーロー伯爵ロバート・ナイトの姪であった。マローンにはヘンリエッタとキャサリンという2人の姉妹がおり、また兄にリチャード・マローン(のちにサンダーリン卿となる)がいた。父エドモンド・マローンは法律家や政治家として成功した人物であり、オックスフォード大学やロンドンのインナー・テンプルで学んだのち、1730年にイングランドで弁護士資格をとった。しかしマローンが生まれる前年の1740年にイングランドでの業務は失敗に終わり、アイルランドに帰国することになった。父エドモンド・マローンは妻とともに母国アイルランド中部のウェストミーズ県シングルスの郊外にある家族の屋敷に居を定めた。その地で弁護士としての仕事を始め、イングランドでの仕事以上の成功を収めることになる[1] トリニティ・カレッジ・ダブリンにあるパーラメント・スクエアのパノラマ写真

マローンの教育に関する次なる記録は10年後の1757年、彼がまだ16歳になっておらず、トリニティ・カレッジ・ダブリンに入学した後である。トリニティ・カレッジでは兄が2年前に学んでおり、また前年に父が名誉学位を受け取っていた。マローンは「模範的な生徒で、生まれつきの勤勉さでもって、一貫して学級のトップにいた」[2]。マローンは学業において優秀な成績を収め、彼の著述に対してカレッジの紋章をスタンプした本を賞としてもらった。4年間の学年度における最初の試験で、最上位の誉れをのちにカレッジの研究員ジェームズ・ドラウト、ジョン・カーニーと分け合った[1]グレート・バース ? 柱の基礎よりも上に建てられたすべての建造物は後世の再建である

マローンの学習は1759年の夏、彼と父エドモンド・マローンが母キャサリンに同行してイングランドのハイゲートに行ったことによって中断された。キャサリンの健康状態はある時から悪化しており、当時は歩行も困難になりつつあった。母はハイゲートでの短い滞在ののち、その地の水が健康を与えてくれるものであると考えられていたサマセットのバースにあるローマン・バスに移る。マローンと父は10月にアイルランドへ戻ったが、冬学期を再開させるにはあまりにも遅すぎため、新学期までシングルスに留まり自分で勉強することを選んだ。マローンは父をひとりぼっちにすることを望まなかったためほとんどトリニティ・カレッジに戻るのをやめようとしたが、最終的には1760年1月に学業を再開させた。母キャサリンのバースでの滞在費用は家計に負担を与えたものの、マローンは6月2日の特別な試験ののちにトリニティ・カレッジで奨学金を勝ち取って学寮の奨学生になり、この奨学金は滞在による金銭的な負担をいくらか軽減するものであった[3]

マローンのトリニティ・カレッジでの最後の試験は1761年、ミカエル祭の期間に行われ、彼は1762年2月23日の卒業に引き続いて文学士の学位を授与された。たった3人のうちの1人として、彼は最高評価を達成している(valde bene)。マローンの父、叔父、祖父はみな法廷弁護士だったため、マローンにとって法律を学ぶという決断は自明の選択だった。1761年に3ポンド6シリング8ペンスを支払ってロンドンでインナー・テンプルへの入場許可をもらったものの、1763年の年初めまで法律の勉強を始めなかった。その中断期間はダブリンで読書をするために費やされ、その後すぐにトリニティ・カレッジ図書館のリーダーに志願している。マーティンは、マローンが読書に費やした期間に「文学についても学んでいただろうとはいえ、恐らく法律に関する勉強をしただろう」と推測した[4][5]
法学校と弁護士業務インナー・テンプル

マローンは1763年1月にインナー・テンプルに入学したとされるものの、1763年5月10日に共同食堂でマローンが「ベンチテーブルに来るように誘われた」[6]ということを除いて、彼の学習に関する記録は僅かしか残されていない。ピーター・マーティンは、マローンが誘われたことはギルド[6]における同業組合になることにも匹敵すると描写している。学業以外で、マローンは政府と英語の濫用に関する風刺的な論説を出版し、また自分が所蔵している新版のジョナサン・スウィフトの往復書簡に修正を加えた。マローンはジェイムズ・ボズウェル[7]と同じ年にインナー・テンプルに入学したが、2人が出会っていたことを示す証拠はない[6]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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