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エドモンド・ハレー
(Edmond Halley)
エドモンド・ハレー
生誕1656年10月29日
イングランド共和国、ロンドン
死没 (1742-01-14) 1742年1月14日(85歳没)
グレートブリテン王国、グリニッジ
研究分野数学、物理学、天文学
研究機関オックスフォード大学
グリニッジ天文台
出身校オックスフォード大学
主な業績ハレー彗星の軌道計算
『南天星表』の発表
プロジェクト:人物伝
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エドモンド・ハレー(英語: Edmond Halley, ユリウス暦1656年10月29日/グレゴリオ暦11月8日 - ユリウス暦1742年1月14日/グレゴリオ暦1742年1月25日[1][2])は、イギリスの天文学者・地球物理学者・数学者・気象学者・物理学者。ハレー彗星の軌道計算を初め、多くの科学的業績で知られる。 Halley の最も標準的な発音は[hali] (IPA) で、"valley" と同じ音韻である。場合によっては [heɪli]("Bailey" と同音韻)のように発音される場合もある。日本語表記についても「ハレー」「ハリー」等が混在するが、今日では「ハレー彗星」の表記が一般的である点などを考慮して、本項では「ハレー」と統一して表記する。なお、本人は [h??li] のように発音していたという歴史家の見解もある。 ハレーはロンドンのハッガーストン(en
名前
略歴及び主な業績
1676年にオックスフォード大学を卒業し、南半球の恒星を研究するため南大西洋のセントヘレナ島を訪れ、1678年の11月まで観測を行った。イギリスに戻り翌1679年に、南半球から見える341個の恒星について詳細に記録した『南天星表』(Catalogus Stellarum Australium) を発表する。既存の星図にこれらの南天の恒星を追加したハレーの業績は、ティコ・ブラーエの観測データに並ぶものとして高く評価された。彼はオックスフォード大学の修士号を取得し、王立協会フェローに推薦された[3]。
ハレーは1682年に結婚し、ロンドンの北にあるイズリントンに住まいを定めた。この時期ハレーはほとんどの時間を月の観測に費やしていたが、重力の問題にも関心を持っていた。彼が関心を寄せていた問題の一つに、ケプラーの惑星運動の法則を証明することがあった。1684年8月に彼はケンブリッジ大学にアイザック・ニュートンを訪ねて議論を行なった。その席で彼はニュートンが既にこの問題を証明しているがまだ発表していないことを知った。ハレーはこの成果を発表するようにニュートンを説得し、これを受けて『自然哲学の数学的諸原理』(プリンキピア)が執筆された。しかし、当初出版を確約していた王立協会が、出版する時期になって資金難となった(全く売れなかった書籍に費やしてしまったといわれる)ため、やむなくこの本はハレーが経費を負担して自費出版という形で出版された。
1686年にハレーは遠征時代の第二の成果である貿易風とモンスーンに関する論文や地図を発表した。この論文の中で彼は、太陽熱が大気運動の原因であることを指摘した。彼はまた気圧と海抜高度の関係を初めて明らかにした。
1693年に彼は終身年金に関する論文を発表し、この中で、住民の死亡記録を詳細に残していることで知られていたポーランドのヴロツワフの記録に基づいて、死亡年齢の統計的解析を行なった。これによってイギリス政府は購入者の年齢に応じた適切な価格で年金サービスを供給することができるようになった。ハレーのこの研究は保険数理学の発展に強い影響を及ぼした。ハレーによるこのブレスラウの生命表の作成はジョン・グラントの先駆的な研究に続くものだったが、今日では人口統計学の歴史における重要な出来事と見なされている。
1690年にハレーは、水中でそれまでよりも長い時間にわたって活動できる器具として潜水鐘を考案した。この潜水鐘には水中で探索活動を行なえるように窓が取り付けられており、空気は重りを付けた樽に入れて水上から送り届ける仕組みだった。
1698年にハレーは英国海軍のパラモア号の艦長に任命され、広範囲の地磁気観測を行なった。彼は2年をかけてこの任務を遂行し、大西洋の北緯52度から南緯52度までを航海して観測を行なった。その結果は General Chart of the Variation of the Compass(1701年)として発表された。これは初めて出版された地磁気図であり、現在ではハレーの線 (Halleyan lines) とも呼ばれる等偏角線が初めて描かれた海図であった。
1703年11月にはオックスフォード大学のサヴィル幾何学教授職に指名され、1710年には名誉法学博士号を受けた。1705年には古天文学の手法を用いて、有名なハレー彗星についての予言を記した Synopsis Astronomia Cometicae(『彗星天文学概論』) を発表した。これは1682年にハレー自身が観測した彗星と、ケプラーなどが観測した過去の大彗星の軌道の比較を行ったものである。ハレーはこの著書で、1456年、1531年、1607年、1682年に現れた彗星は同一の天体であり、次は1758年に回帰することを予言した。ハレー自身はこの回帰を待つことなく1742年に85歳で亡くなったが、予言の通り16年後の1758年に彗星は発見され、これによってこの彗星はハレー彗星 (Halley's Comet) と呼ばれることとなった。ハレー彗星は、惑星以外で太陽系を公転する天体が初めて確認された例でもあった。
1716年には、金星の日面通過の際に観測地点によってその開始・終了時刻が異なることを用いると地球と太陽の間の距離(天文単位)を高い精度で求めることができると提案した。金星の日面通過そのものは1639年に観測されていたが、その天文学的な重要性はハレーによって初めて指摘されたものであった。なお、この現象も彼の生存中には起こらず、実際に観測が行われたのは1761年および1769年のことであった。