エドモントン・オイラーズ
[Wikipedia|▼Menu]

エドモントン・オイラーズ
Edmonton Oilers
カンファレンス
ウェスタン・カンファレンス
ディビジョンパシフィック・ディビジョン
創設年1972年 (52年前) (1972)
(1979年にNHL加入)
歴代チーム名アルバータ・オイラーズ
(1972 - 1973)
エドモントン・オイラーズ
(1973 - )
ホームアリーナロジャーズ・プレイス

ホームタウン カナダ
アルバータ州エドモントン
.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}
チームカラーオレンジ、ネイビーブルー、白
.mw-parser-output .legend{page-break-inside:avoid;break-inside:avoid-column}.mw-parser-output .legend-color{display:inline-block;min-width:1.5em;height:1.5em;margin:1px 0;text-align:center;border:1px solid black;background-color:transparent;color:black}.mw-parser-output .legend-text{}     
メディア
オーナーダリル・カッツ
GMケン・オランド
ヘッドコーチデイヴ・ティペット
キャプテンコナー・マクデイヴィッド
獲得タイトル(獲得年)
スタンレーカップ優勝 (5回)
1984・1985・1987・1988・1990
アブコワールド (0回)
なし
カンファレンス優勝 (7回)
1983・1984・1985・1987・1988・1990・2006
ディビジョン優勝 (9回)
1979・1983・1984・1985・1987・1988・1990・1991
1992
プレジデンツトロフィー (2回)
1986・1987

エドモントン・オイラーズ(Edmonton Oilers)は、カナダアルバータ州エドモントンを本拠としているナショナルホッケーリーグNHL)所属のプロアイスホッケーチームである。
歴史

1972年にアルバータ・オイラーズとしてWHA(ワールドホッケーアソシエイション)の創立メンバーとなる。創立時のオーナーはビル・ハンター(Bill Hunter) 。ハンターは従前はエドモントン・オイル・キングスのオーナーであり、後の西部ホッケー・リーグ (Western Hockey League) の創立者でもあるが、彼のエドモントンへのプロホッケーチーム誘致はNHLに頑として拒絶され続けた。アルバータ・オイラーズという名の元々の命名理由は、カルガリー・ブロンコス (Calgary Broncos) の解散後において、アルバータ州の2大都市であるエドモントン、カルガリー双方でのホームゲーム開催を企図していたこととされる。もっとも、チームはエドモントンのみで全興行を行ったが、これは財政上の理由やNHLかWHAのいずれかがカルガリーへ進出するのを容易ならしめるためといわれている。翌年には実態を反映させるために「エドモントン」・オイラーズへと改名。

1978年になって、新オーナーのピーター・ポクリントン (Peter Pocklington) は、球団存続を断念したインディアナポリス・レイサーズ (Indianapolis Racers) から、当時まだ新人だったのちのスーパースター、ウェイン・グレツキーを獲得した。グレツキーは間もなく閉鎖されるWHAの最後の新人王となり、チームはウィニペグ・ジェッツハートフォード・ホエーラーズ 及びケベック・ノルディクス とともにNHLに参画した。

オイラーズは、グレツキー、マーク・メシエやケビン・ロー (Kevin Lowe) ら有力若手選手を擁し、NHL参加1年目からスタンレー・カッププレイオフ進出を達成し,その名をリーグに轟かせた。このプレイオフではフィラデルフィア・フライヤーズに3敗と敗れ、またポール・コフィーヤリ・クリが加入した2年目のレギュラーシーズンの順位は月並みに終わったが、1981年のプレーオフ1回戦では、絶大な人気を誇ったモントリオール・カナディアンズを3勝0敗で破る大番狂わせを演じた。 

1981-1982 シーズンでは、レギュラーシーズンでリーグ最高の成績を収めたものの、若いチームゆえに自らを見失って地区準決勝で敗退した。1983年は初めてスタンレー・カップ決勝に進出したが、3度の優勝経験を持つニューヨーク・アイランダーズの前に1勝3敗で屈した。しかし、その1年後、4勝1敗でアイランダーズを下し、スタンレー・カップ初優勝を決めた。

これが1980年代の「アルバータ王朝時代」、すなわちエドモントンとカルガリー・フレームスがその後5シーズンに渡ってリーグトップの座を巡ってしのぎを削る時代の幕開けとなった。エドモントンは1985年に再びカップ優勝を成し遂げたが、1986年の西部地区(当時はキャンベル地区)決勝の第7試合では宿敵フレームスに痛恨のオウンゴールで敗退、フレームスのカップ決勝(優勝はモントリオール)進出を許した。

1987年はエドモントンは再度カップ決勝に進出し4勝3敗の僅差でフィラデルフィア・フライヤーズを下した。また1988年にはスタンレー・カップを通じて18試合中僅か2敗と無類の強さを見せ、ボストン・ブルーインズを破って過去5年間で4回目の優勝を飾った。

しかし1988年の夏には、グレツキーが金銭1,500万ドルと2選手との交換トレードでロサンゼルス・キングスへ移籍することとなった[1]。この移籍問題はカナダ議会での議題にあがった。この移籍騒動によって1989年のシーズンは混乱続きとなり、エドモントンは1982年以来初めて地区決勝に進出を果せず、またキングスも同様の混乱によって7戦方式のシリーズに敗退した。

続く1990年もエドモントンには混乱が続く。とりわけオールスター選抜選手で将来の殿堂入りを目されたゴーリーのグラント・フューアがコカインの所持及び使用で告発されたことは痛手であった。しかしチームは新ゴーリーのビル・ランフォードに続いて勢いを盛り返し、地区でカルガリー、ロサンゼルスに次ぐ成績であったにもかかわらず、5度目のカップ決勝に進出し4勝1敗でボストン・ブルーインズを下した。ゴーリーのランフォードはこの時の目覚しい活躍によりプレーオフ最優秀選手賞を獲得している。

しかし徐々にチームには衰微の兆しが現れ始めていた。グレツキーの移籍はNHLにおける急激な年俸の高騰という新たな現実をもたらし、エドモントンのような市場規模の小さなチームは、もはやアメリカ合衆国大都市のチームが提示する高額年俸とは競争ができなくなりつつあった。マーク・メシエ、ヤリ・クリ、ランフォードやグレン・アンダーソン (Glenn Anderson) らの有力選手はすべて相次いでチームを去り、残されたのは実績の少ない若手選手ばかりとなった。1991年1992年には、地区決勝に進出したものの、オイラーズは過去5年間を支配した往時の面影はなかった。1993年にはリーグ参加以来初めてプレイオフ進出を逃し、その後4年間はプレイオフに姿を見せない低迷が続いた。

オーナーであるポクリントンの所有する精肉会社ゲイナーズ (Gainers) がスキャンダルと不正行為の追及を受け倒産するなど、氷上外でもトラブルは続いた。1990年代のオイラーズはチームの存亡をかけて死に物狂いであった。1999年、ついに37のオーナーから構成されるコンソーシアムがチームを買収し、エドモントンでのチーム存続を明言した。短期間に2つのカナダのチームを失うという事態を深く憂慮したNHLの努力によって、オイラーズはこの支援を受け続けている。

1997年にはオイラーズはプレイオフに久々出場を果たし勝利を重ねた。特に7戦までもつれたダラス・スターズを破ったシリーズは当時の最もエキサイティングな試合の1つといわれ、延長戦において追いすがる敵をかわして決めたゴールで勝利した。次のラウンドではコロラドに敗れはしたものの、オイラーズのプレーオフへの復活に陶然となったと伝えられる。

1998年はエドモントンはプレイオフ2回戦でダラスと再び合いまみえたが、急速に力をつけつつあったダラスの勝利に終わる。ここに、ホッケー史上稀に見る熾烈なライバル関係が始まる。1997年から2003年までの間、実にプレーオフで両者は6度顔を合わせ、そのうち5試合は1回戦での対戦であった。2002年こそ対戦はなかったが、これは両チームともにプレーオフ進出を果せなかったためである。2004年には、この拮抗状態が敗れエドモントンはプレーオフ進出がならなかったが、他方ダラスは進出しコロラド・アバランチと対戦している。

2003年11月22日オイラーズは、NHL初の野外試合、「ヘリテージ・クラシック (Heritage Classic)」を主催した[2]。NHL観客動員数最高の55,000人超の観客をエドモントンのコモンウェルス・スタジアムに集めたこの試合で、オイラーズはモントリオール・カナディアンズに4対3で敗れた。

2004年1月23日オイラーズは、AHLに属するマイナーチームのトロント・ロードランナーズが2004 - 2005シーズンの試合を本拠地のレクソール・プレイスで開催すると発表した。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:32 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef