エドマンド・テューダー_(リッチモンド伯)
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エドマンド・テューダー
Edmund Tudor
初代
リッチモンド伯

在位1452年 - 1456年

出生1430年
イングランド王国ハートフォードシャー、マッチ・ハダム
またはベッドフォードシャー、ハダム
死去1456年11月1日
ウェールズ、カーマーセン城
埋葬 ウェールズ聖デイヴィッド大聖堂
配偶者マーガレット・ボーフォート
子女ヘンリー7世
家名テューダー家
父親オウエン・テューダー
母親キャサリン・オブ・ヴァロワ
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初代リッチモンド伯エドマンド・テューダー(Edmund Tudor, 1st Earl of Richmond, 1430年頃 - 1456年11月1日)は、イングランドの貴族。オウエン・テューダーキャサリン・オブ・ヴァロワフランスシャルル6世の娘でヘンリー5世の未亡人)の長男でベッドフォード公ジャスパー・テューダーの兄、ランカスター朝最後の国王であるヘンリー6世の異父弟、テューダー朝の始祖である国王ヘンリー7世の父。
生涯

エドマンド・テューダーは、ハートフォードシャーのマッチ・ハダム(Much Hadham)もしくはベッドフォードシャーのハダム(Hadham)で、オウエン・テューダーとキャサリン・オブ・ヴァロワの息子として生まれた。彼の両親が密かに結婚して、合法的に生まれてきた子なのかどうかは分かっていない。事実はともかくとして、1437年に母が亡くなった後、サフォーク伯ウィリアム・ド・ラ・ポールの姉妹でバーキング女子修道院長キャサリン・ド・ラ・ポールに引き取られ養育、異父兄であるヘンリー6世からは1452年にリッチモンド伯に叙爵・認知された。弟ジャスパーもペンブルック伯に叙された[1][2]

1455年、エドマンドはマーガレット・ボーフォートサマセット公ジョン・ボーフォートの娘)と結婚した。彼女はその時12歳であって、翌1456年に妊娠した。しかしながら、薔薇戦争の始まりでエドマンドはヨーク派のウィリアム・ハーバート(またはウォルター・デヴルー)によって捕らわれ、南ウェールズのカーマーセン城に収監された。そしてそこで伝染病にかかって亡くなった[1][3]

エドマンドの唯一の子であるヘンリーが生まれたのは、その2ヵ月後のことである。
脚注^ a b 森、P281。
^ 尾野、P32 - P33、ロイル、P160、P209、桜井、P193 - P195。
^ 尾野、P33 - P34、ロイル、P228、桜井、P195 - P198。

参考文献

尾野比左夫
『バラ戦争の研究』近代文芸社、1992年。

森護『英国王室史事典』大修館書店、1994年。

トレヴァー・ロイル著、陶山昇平訳『薔薇戦争新史』彩流社、2014年。

桜井俊彰『物語 ウェールズ抗戦史 ケルトの民とアーサー王伝説』集英社集英社新書)、2017年。


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